これまでの琉球仏教史研究は、薩摩藩による宗教統制や鎮護国家仏教としての意義など、論点の中心はあくまでも政治・外交にリンクする範囲の中にあった。また、その研究手法としては、王府が編纂した歴史書の分析が中心となってきた。本研究では、久米島の上江洲家文書等の在地史料や台湾大学所蔵の未公開史料を中心に検討を行い、寺院の社会的機能を解明することを意図した。 在地史料は無年号文書であるため、取り扱いが難しかったが、筆跡を中心とした研究によって、無年号の寺院関係文書の年次比定をまず行った。その上で、琉球寺院の社会的機能の研究を行い、琉球寺院の社会的機能には宗派別に異なる特徴があることを明らかにした。すなわち、真言宗寺院は占いとそれに連動して行われる祈願を主に担当し、臨済宗寺院は葬送・追善仏事を主に担当するとの機能分担が存在していた。 琉球仏教の母胎となったのは日本仏教であるが、日本中世における両宗派の特徴、真言宗の祈祷、臨済宗の葬礼は、琉球仏教にも受け継がれてゆく。但し、日本では近世期に入ると、中世的特徴が変化してゆき、例えば真言宗は葬礼仏教としての色彩を強化してゆくのに対し、琉球では日本中世の伝統をそのまま継続しつつも、民間との交流関係を構築し、両宗派の特徴を生かして社会的要請に応える。そのことで、王府からの経済的支援を受けられない私寺は、生き残りを図っていたことを明らかにした。
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