本研究は、清朝最末期、清朝体制再編の時期における財政中央集権化の試みと、アヘン追放運動との関わりを考察するものである。1906年「禁烟上諭」と1907年「中英禁烟協定」仮協定の締結に始まるアヘン追放運動は、中国政府がアヘン吸烟という旧弊の一掃を目指し、イギリスもそれに協力した改革運動であると評価されてきた。しかし、そのようなとらえ方は、当時の清朝中央政府が財政破綻に瀕しており、将来増収の可能性のある税源として中国アヘンがいかに重要であったかを過小評価していると思われる。本研究は、旧弊の一掃という大義名分の裏で、中国アヘンの課税権を中央政府が掌握しようとする企図がなされていたことを明らかにし、アヘン追放運動の狙いをとらえなおそうとするものである。 本研究の結果、1906年以降、中央政府と地方政府との間で中国アヘン税収をめぐる争奪戦が激しさを増していたこと、「中英禁烟協定」は、アヘン貿易を停止させ、アヘンへの課税をめぐるイギリスの干渉を排除した上で、中国アヘンへの自由な課税を実現し、最大限の税収を確保しようとした政策であるという展望を示した。
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