太平洋戦争が始まる1941年12月に中国の上海租界には推定1万8000人のヨーロッパ系ユダヤ人がいた。彼らはナチスドイツ支配下のドイツ、オーストリア、ポーランド、チェコスロバキア等から逃れた人々だった。そのうちの1000人以上を占めていたポーランド系ユダヤ人の多くは1939年9月のドイツおよびソ連によるポーランド侵攻に追われ、1940年7月〜8月当時まだ中立国だったリトアニアのカウナスで日本の副領事杉原千畝から日本通過ビザを得て極東までたどり着いたと言われている。平成19年度において本研究では外交資料館に残されている資料と上海提藍橋分局特高股が作成した『外人名簿』を照合し、この歴史的事実を検証した。 杉原がリトアニア時代に発給した日本通過ビザの受給者リストには2140人の氏名が記載されており、そのうち437人が上海の『外人名簿』にも認められる。その内訳は男性が401人、女性が36人である。この不均衡の理由は彼らの中にユダヤ教の神学校の教師と学生が232人いたことと、迫害の対象になりやすい男性がまず逃れたことにある。神学生が200人以上いたため、杉原からビザを得た人々の多くは上海の他のユダヤ人難民に比べ1世代以上若い集団に属する。また他のユダヤ人難民が西欧的、世俗的であったのに対し、ポーランド系ユダヤ人難民は伝統的宗教性を保持する東方ユダヤ人として明らかな対照をなした。 杉原はリトアニアの次に着任したチェコスロバキアのプラハでもユダヤ人にビザを発給し、80人のリストを残している。こちらでは女性の方が多いが、それは先にヨーロッパを脱出した夫の後を追って移住する妻と子供というケースだった。またチェコスロバキア系ユダヤ人難民はポーランド系ユダヤ人難民に比べ裕福であり、上海の高級住宅街に同郷人のコロニーを形成していた。
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