16世紀後半の明宗代より『光国原従功臣録券』が発給される宣祖24年(1591)までを中心に、この外交交渉の推移と対応策に関する史料の整理・分析を継続した。その成果の一端は朝鮮学会大会にて報告のうえ、2編の論考を成稿した。その概要は以下のとおりである。 1、明宗代前半期に朝鮮使節は『嘉靖会典』事例の写本2種を入手し、逸文として残るその内容は「萬暦会典』朝貢条にほぼ継承されることが判明した。その後、明宗18年(1563)には奏請兼進賀使金〓と書状官李陽元の外交交渉により桓祖名を載録するとの勅書が降り、ここに明宗は「皇恩」に感謝した。 2、宣祖6年に奏請使李後白の外交交渉により『明実録』に宗系改正事情を載録するとの勅書が降った。これを契機に朝鮮使節は『萬暦会典』朝貢条の謄写本につづいて正本1冊を獲得し、宣祖22年に聖節兼奏請使尹根寿が全223巻を下賜されたことによりこの問題は決着した。実際に『明世宗実録』には中宗24年の聖節使柳溥による外交交渉に関して詳細な記録を残し、この記録を基礎に李成桂の宗糸と朝鮮建国始末が『萬暦会典』朝貢条の「朝鮮国」に附録されたことが判明した。 3、この外交問題の解決により、宣祖には萬暦帝に対する「再造の恩」が生まれた。宣祖23年に尹根寿以下、光国功臣19名が選定され、翌年には872名が光国原従功臣として録勲される。『光国功臣会盟録』と『光国原従功臣録券』を検討した結果、功臣会盟祭には歴代の功臣とその子孫296名が参席し、原従功臣には現職・前職の儒者官僚ばかりでなく、進士・学生のほか書吏・官奴をも含む名彩な人選の結果であったことが明らかとなった。
|