今年度も科学研究費補助金と先方の助成金を組み合わせ、半年間の現地調査を敢行した。調査地として、近世ヨーロッパのペスト文書をもっとも豊富に所蔵するヘルツォーク・アウグスト・ビブリオテークを選んだ。前年度に引き続き、神学的ペスト文書と医学的ペスト文書を、カトリック、ルター派、カルヴァン派の三宗派ごとに比較考察した。神学的ペスト文書には三つの宗派の考え方の違いが如実に現れた。どの宗派もペストを神の罰と見る。しかしそれに対して信者がとるよう説かれる態度には大きな違いがある。ルター派では信者に熱心な贖罪が勧められる。贖罪の勧めはすでにカトリックにもあったが、強さの点でそれはルター派のそれとは比べものにならない。カトリックではそれと並んで、守護聖人への祈願、護符の購入といった行いも大切であった。いっぽうカルヴァン派の神学的ペスト文書では、信者の贖罪が説かれることはほとんどない。それに代わって、恐れと闘うことが強調される。神学的ペスト文書に見える三宗派のペスト観は、三者三様である。いっぽう医学的なペスト文書にも、極めて興味深い宗派ごとの特徴が見つかった。16世紀の後半になると、ペストの毒をペストの予防や治療に使うことが議論される。これにもっとも積極的だったのはカルヴァン派の医師たちである。ルター派の医師たちは理論的には関心を示したが、なお実践に移すのには慎重であった。 これに対してカトリックの医師たちは宗教上の理由からペストの毒の利用には反対であった。毒を使った予防・治療は毒性の強いペストには有効ではなかったが、18世紀以降天然痘医療で効果を発揮する。天然痘の予防接種にカルヴァン派の医師たちが示した先進性、ルター派の医師たちの慎重さ、カトリックの医師たちの先端医療に対する腰の重さ、三者三様の態度の歴史的・宗教的な由来があきらかにできるかもしれない。
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