本年度は、1967年のポンド切下げをめぐる政府内政策決定過程に焦点を当て、国際収支・為替危機の深刻化に伴い、首相や蔵相、外相といった主要政治的アクターの選好や力関係がどのように変化していったのか、この点に関する資料収集と分析を行った。国際収支の悪化と1966年5月の海員組合ストを直接の契機とする経済危機に対し、閣内では、ブラウン経済問題相や後の蔵相ロイ・ジェンキンズらがポンド切下げを主張したのに対して、ウィルソン首相とキャラハン蔵相は、デフレ政策を主張した。こうした内閣分裂は、ウィルソン政権下の経済政策の立案が、首相官邸、大蔵省、経済問題省の3機関に分かれ、三者間での調整欠如と軋轢を反映していた。当初、首相と蔵相の主張するデフレ政策が採用されたが、それは経済政策上の理由からではなく、1949年のアトリー政権下のポンド切下げから労働党政権に対する経済運営能力の評価低下を避けたいという政治的要因に因るものであった。そこには、ドル防衛の手段としてポンド防衛を求めるアメリカからの要請や圧力が作用していた。最終的には、国際収支悪化という経済的現実の前に、ウィルソン首相はポンド切下げに踏み切る。67年のEEC加盟申請に示されるように、同年のポンド切下げは、英連邦、アメリカ、ヨーロッパという戦後イギリス外交政策を基礎づけてきた「3つの輪」ドクトリンの軸足が揺らぎ始めた象徴的な事例であった。国内過程については、TUCや1965年に結成されたCBI、さらにCityなど、ウィルソン政権の経済政策に対する主要利益団体の対応とそこに示されるイギリス資本主義の制度的特徴、他方国際的には、「3つの輪」の変容過程を分析することが今後の課題として残った。
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