林市藏の履歴に関するこれまでの研究で、帝国大学卒業後に、判任官としての拓殖務省属を振り出しに奏任官たる警察監獄学校教授の任を終えるまでの官吏履歴の前半を検証していた。その検証からだけでも、たとえば借金返済にまっわる友人との関係の可能性など、今までとは違った市藏像を提示できた。 市藏はその後、山口縣、廣島縣、新潟縣で事務官となり、三重縣知事から東洋拓殖會社理事、山口縣知事を経て、米騒動直前に就任した大阪府知事で依願免本官となって官界から離れる。その大阪府知事時代に「大阪府方面委員規程」を制定し、免官後に民間会社の役職を得てからも、方面委員の発展に尽力する。 19年度の研究では、山口縣、廣島縣、新潟縣の各事務官、三重縣知事から東洋拓殖會社理事までの履歴の解明作業を続け、林市藏が方面委員制度創設に関わるまでの歩みをより明確なものにできた。特に東拓総裁吉原三郎が、1916(大正5)年10月21日に辞職し、野田副総裁、市藏、井上孝哉ら四理事も連挟辞職した理由として、背景に政友會・非政友會の政治的駆け引きがあったことを推察できたのが成果であった。 しかし市藏の東拓理事退任から山口・大阪の両知事着任までの人事が、寺内内閣の下で行われている。これらの背景を明らかにすることと大阪府方面委員制度創設の関係について、20年度の研究で引き続き継続するが、政党の政治的駆け引きもひとつのキーワードになるだろう。
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