昭和10年頃までの農村の窮乏と失業問題は10年代半ばになると議論の中心ではなくなり、代わって人口政策、戦時体制下の人的資源確保の問題が中心を占めるようになる。社会事業という表現も社会施設という表現によってより広がりが認められるようになる。にもかかわらず、社会政策が労働政策と並列に用いられ、そこでの社会政策は貧困対策と同義となっていることが把握できる。戦時体制下で国家財政は軍事関係費に異常なウェイトがかけれらていくが、この時期ではまだそれを批判的にみる議論も少なからずみられ、その際に特徴的であるのは、貧困問題への対応も広義の国防であるとする解釈にたった発言となっている点である。同じ国防を盾にしながら、国民最低水準の生活保障の必要性が説かれ、それらが人的資源や民族優生とも結び付けられていく。国政審議は戦時下とはいえ、議会審議の体制をまだ保っており、1938年の社会事業法案審議においても、戦時下を明確に示すような発言が、必ずしも優勢になっているわけではない。ただし、こうした国民全体の生活問題への対応が厚生省の課題となり、厚生政策という表現が浮上していく中で、従来の社会連帯という表現はその位置を、旧来の隣保相扶などの表現に変えられつつあった。その契機がどこにあったのかについては、本年度の中ではまだ把握し切れていないが、昭和10年代前半期の社会思想研究を通じて明確に出来るのではないかと思われる。
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