本研究は、1940年代という、総力戦体制下から戦後改革期にかけての時期に、なぜ公立専門学校・公立大学といった高等教育機関が地方公共団体によって大量に設置されたのか、ということを明らかにすることを目的としている。本年度は1940年代前半の公立医学車門学校の史料を調査・収集を進めた。 具体的には、(1)当初、計画していた秋田、高知、広島に加えて、三重、大阪、神奈川の公共図書館、議会図書館、公文書館を訪問して地方新聞や地方議会議事録の調査・収集を行なった。とくに三重県では、三重県立医学専門学校の設置をめぐって、津市の市会議員であった酒井万馬文書のなかに、「三重県立医学専門学校事業計画概要」など、議事録や新聞記事ではうかがうことのできない水面下での動きを見出すことができる新史料を発見することができた。 (2)総力戦体制下の高等教育政策に関しては、教育審議会と臨時附属医学専門部設置経緯に関して検討した。 (3)地方公共団体の「公立高等教育機関」観については、前年度に引き続き設置認可申請書の検討を進め、1940年代前半に増加した公立医学専門学校が軍医養成機関であった臨時附属医学専門部との連続性において捉えられてきたこれまでの理解に対して地方的要求が設置の理由であったとの見解を示し論文化して公表した。 (4)民衆の「公立高等教育機関」観については、地方新聞の記事の検討を行なった。
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