1.旧所蔵者である西田金吾明則について、岩国市の錦帯橋近くの岩国徴古館に調査に行き、吉川家寄贈資料の藩政史料を見ていると(年の暮に推薦された者に対して褒美を決めたがその内容を書き留めたものとして知られる)『暮沙汰帳』というもの中に西田金吾明則が和算についていろいろ勉強して関流免許皆伝となっていたことを示す資料があり旧蔵書の存在と対応していた。2.「〓家秘函附録 測量篇」の最後に「崎陽 停車園主人識」とあり、停車園というのは、長崎の銀屋町に住んでいた上野俊之丞常足(画家の家系の子として寛政二年三月三日(西暦1790年4月17日)生まれ、嘉永四年八月十七日(西暦1851年9月21日)没、戒名は知新斉潜翁若龍居士、風頭山麓皓台寺後山(高台で風頭公園からすぐのところ)に墓がある。)のことであり、日本最初のプロカメラマンの上野彦馬の父であることはわかった。3.東北大狩野(測量篇、安政二奥宮正路写一冊)と佐賀県図蓮池鍋島の測量篇、とがあり、読み合わせたところそれらは本編ではなく「〓家秘函附録 測量篇」とほとんど同じであった。4.しかし、それらを仔細に見比べることにより、本編がどのようなものか推察できた。すなわち、本編には大測器による測量結果を八線表(三角関数表)を用いて計算する方法が記述されていると推測される。5.数学的にはコンパスを用いた図から、相似三角形の辺の長さの比例関係と、目標物を二地点において見て量った角度から目標物の長さや高さを移動距離とそれぞれの角度に対する正接の値から導く三角関数を用いた精密な式の近似式が使われていることがわかった。
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