研究課題
1.関新助孝和の伝記的な面について、死後、寛政重修諸家譜成立後としても200年以上、謎とされてきた多くのことが、ある甲府分限帳を調査する機会を得てその記録を活字化することにより明らかにした。これによって、年齢、生誕地、甲府藩における職歴がわかり、関新助孝和という稀有の和算家(数学者)の社会的な地位がほぼ明確になった。すなわち、年齢については、元禄14年(西暦1701年)時点で数えで57歳、従って1645年生まれとなるが、他に記載される建部彦次郎賢弘等の記録からすると、2~3歳のずれはあるとも考えられる。関新助孝和の養父については、「甲府日記」からも読み解いていたが、実は、関十郎右衛門であり、寛文五年十一月二十三日(1665年)に高百俵で跡目を継ぎ、小十人御番として桜田館に出仕し、延宝八年に小十人組頭、元禄五年に賄頭、元禄十四年に勘定頭差添筋と昇進していったことがわかった。昇進するに連れて数学の研究ができにくくなっていく様子がみてとれる。2.関孝和の円周率の計算が『括要算法』に残されているが、なぜ、増約法を用い「3.14159265359微弱を定周と為す」と結論付けたかという疑問が提出されており、数値計算を検討し、小数第13位までは正しく計算したと関孝和自身が信じられる結果となっていることを明らかにしたが、やはり村松茂清の球の体積と表面積の計算をさらに推し進めた関孝和の扱いから、等比級数的な考えの着想を得たであろうことを指摘した。3.西田明即の残した「砲家秘函測量篇附録」から上野俊之丞常足の「砲家秘函」の成立・構成について、高知市図書館徳弘文庫にあった巻一、二から、砲術家のために三角関数表を使って距離を測る方法の解説から始まっていることが分かった。
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数学史研究 204
ページ: 36-45
京都大学数理解析研究所講究録 (掲載予定)
Proceedings of the International Conference on History of Mathematics in Memory of Seki Takakazu(1642?-1708)published by Springer-Verlag (掲載予定)