1.研究の意義と重要性平成20年度は、主として(1)北四川路を中心とする旧日本人居住地区の空間構成と居住形態について追究し、近代上海における旧日本人の生活環境と居住形式を明らかにし、(2)近代上海における旧日本人学校の成立背景や立地条件、校舎の空間構成を解明した。(1)と(2)を総合することにより、戦前期海外における日本人の生活様式と教育環境が明らかになり、近代日本の住居史と学校建築史に新たな知見を提言することが出来た。なお、それら今日も残っている住居建築と学校建築の復原作業と史的価値を確認したことにより、今後の北四川路地区を始めとする1目市街地の歴史的建造物の保存や活用に重要な参考資料を提供することが出来ると考えている。 2.研究内容(1)1928年の「上海市街地図」(陸戦隊作成)と同年の「上海各路日本人分布資料」(上海日本領事館実施)との照合することにより、当時点は多くの日本人は虹口地区及び北四川路地区に集住していたことが判明し、保存状態良好の北四川路を中心として同地区の空間構成と居住形態について分析を行った。その結果、日本人用住宅は主に北四川路の両側に高密度に立地し、その間に国民小学校、演藝館、福民病院等が点在していたことがわかり、1928年時点で、北四川路地区はすでに日本人用住宅や公共施設等の都市機能がすでに確立したことが分かった。一方、居住形式に関し、日本人専用の住宅はあまり開発されず、多くの日本人は欧米人が開発した洋間での生活スタイルが基本だったが、現実には畳を持ち込み、床座生活という和洋折衷の方式に切り替えった家庭が多く、海外にいながら、畳生活に固執した邦人の生活の一面を明らかにした。(2)主として「在外邦人関係雑件」及び居留民団の史料を使用し、上海における旧日本人学校の成立背景と立地、その教育環境等について検討した。上海の日本人学校は、侵略と戦争という時代背景の下で、その設置と整備は上海居留民団により進められた。その立地は日本人居住地の北四川路、虹口地区を中心としたが、上海に進出した多くの社宅を有した紡績企業の立地とも密接な関係を持ちつつ、かなり広範囲に及んだ。校舎は、大型コンクリート造でこれらは日本の規定を基本としながらも、廊下の形成や奉安室の位置などの点においては、日本とは違う形式が取られた。特に奉安室は押入の改造したものを充当する等の扱いは、租界地の一角を占める日本人学校の不安定の状況が端的に読み取れた。しかも、上海事変に伴う学校の新設、転校又は一時帰国等が繰り返され、児童にとって決して落ち着いた教育環境ではなかった。上海の日本人学校は日本人の上海進出において不可欠な役割を果たしたが、図らずもその存在自体が抱える本来的な矛盾の一端を明らかにした。
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