研究概要 |
まず、郡是製糸(株)は明治末期にいちはやく分工場の大型化を視野に置いていた。明治期の買収工場の敷地規模は7分工場で平均2,623坪であったが、大正期の13分工場の当初平均敷地規模は9,969坪、昭和期は8工場で平均13,948坪である。大正4年買収の津山分工場の敷地は、当初は元武家地1,557坪であったが、買収後すぐに隣町の土地14,937坪を購入し、移転。つまり、買収工場であっても新設と変わりなく、大型工場の計画的な建設が進められた。 次に、敷地の拡張や利便性を見込めない分工場は廃止し、大型化にあわせて配置計画の標準プラン(生産施設と居住施設の分離、南向き配置、構内に社宅街の確保)を確立した。そのため大正6年に社内に建設課を置き、迅速に分工場の建設を進めることを可能にした。標準プランを確立することで、同種の建物が同時に多数の分工場に採用され合理化された。福知山・舞鶴の2分工場の同時建設はその例である。 さらに昭和期には九州や中国地方を中心に分工場が展開され、熊本や臼杵などは、乾燥場を先に建設して原料を十分に確保してから大型の工場を建設するという手法がとられた。良質で大量の原料繭を確保するため、工場進出以前から養蚕の技術講習会を行い、指導奨励によって繭の生産力を高め、地域の養蚕農家の発展に貢献した。その他の立地条件には、鉄道(軽便鉄道も含む)の開通、人口の多い旧城下町などでの労働力の確保、工場用水(上水と排水)と動力源(電力)の供給などがあげられ、条件を整えることが地域の近代化にもつながった。 このような結果は、機械化・分業化による効率化と社員教育による組織化の推進によるもので、本研究の意義は、経済的成功をおさめた民の系譜の工場について近代化過程を明確にすることにある。
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