研究概要 |
本研究の意義は大正期以降に発展した民間の大規模器械製糸工場の近代化過程を明確することにあり、その成果は、経済的に不成功に終わった官営富岡製糸場以降の建築史研究の空白ともいえる期間を埋めるものとして重要である。 20年度は、27箇所の郡是製糸株式会社分工場について昭和6年度末の「土地建物平面図」と「土地建物説明表」から、敷地規模、地目別割合、建物の構造・階数・屋根葺材を分析し、現地調査の結果とあわせて以下のことを明らかにした。 (1)新設あるいは買収等の建設経緯と敷地の拡大化-昭和6年度末における27分工場の敷地規模の平均は13,126坪であった。明治期から大正中頃までに操業した分工場の多くは、当初の敷地規模が小さく、昭和6年度末と比較すると、津山で約12倍、山崎で約9倍、成松で約6倍と拡大している。周囲の田畑地などを工場用地として取り込み徐々に宅地化したのである。それに対して大正末期以降に操業した分工場は田畑地の割合が高く、当初から敷地1万坪以上を確保できる土地を求めたことが要因だとみられる。 (2)鉄骨造・RC造・SRC造などの建設技術の進化-大正11年までに操業した分工場の建物はすべて木造であったが、大正12年建設の今市分工場にはRC造・SRC造が多く採用された。以降昭和3年までに操業した大田・久世・熊本分工場もRC造率が高いが、昭和4年操業の青洲分工場からはRC造は採用されなくなった。世界恐慌が要因とみられる。また、RC造・SRC造は、大面積を占める再繰場・繰糸場・食堂などに、鉄骨造は主に乾燥場などに採用された。 (3)居住施設の充実過程-各分工場の構内には、本工場と同様、厚生施設として食堂・浴場・養生院(病院)など、居住施設として女子寮・男子寮・社宅などが建てられた。居住施設は生産施設とは分離して建てられ、南向き配置、構内に社宅街の確保などを標準化して計画された。朝鮮の大田・青洲分工場では温突を取り入れ、国内では2階建ての女子寮が平屋で建てられた。 全体的に捉えると、各分工場の建物は本社建設課で設計され、構造・階数・屋根葺材などの標準化により、短期間に多数の建物を建てることを可能にした。その一方で、朝鮮では温突が採用され、山形県の長井分工場では雪国仕様の屋根葺材を使用するなど、地域性は考慮されている。
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