郡是製糸株式会社の分工場の形成とそれによる地域の近代化について、以下の点について分析し、地域的あるいは年代的な特色を明らかにした。 (1)建設経緯 中国地方の新設の4工場は、地元の官民が一体となって誘致を行い、設置された。そのため、鉄道駅付近の一等地でしかも1万坪を超える広い敷地に立地していた。誘致条件に道路整備や水道敷設などのインフラの充実があげられ、自治体が誘致の交渉にあたることでこれらがスムーズに進展した。朝鮮の大田工場では、都市計画が考慮され、当初工場用地として購入された農地が交換されて移転した。また清州工場も含めて、朝鮮の工事にはジョイント・ベンチャー方式が採用された。 (2)建設技術 大正12年から昭和恐慌期以前に操業した工場にはRC造や鉄骨造などの積極的な摂取がみられた。このことは既に指摘したが、プラン自体も新しくなり、南北方向に長く建て、鋸屋根を設置することで北面採光となった。昭和恐慌期以降は、多条機を導入した新鋭の工場であっても建物は木造主体に戻り、RC造は防火壁にしか採用されなくなった。多条機への移行によって機械化が進んだが、建築に大きな変化はなく、むしろ後退した。 (3)居住施設と配置計画 本社・本工場の配置計画には、生産施設と女子寮の明確な分離・社宅街区の設定・男子寮と女子寮を隔離して設置などの特徴がある。これを標準プランとすると、28工場のうち大正中期以前操業の5工場がこの配置を踏襲しなかった。その理由には、買収前の配置に影響を受けたこと、狭小あるいは変形敷地であったことがあげられる。買収前の小規模工場は敷地がかなり狭く、様々な用途の建物が混在していた。 本研究の意義は、富岡製糸場以降の大規模製糸工場の近代化過程を解明することにある。設計力や技術力が最も高まった時代は、同社では昭和恐慌直前期とみなすことができ、建設技術が集大成された。
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