「女子文壇」の掲載内容をジャンル別に整理し、「地方」別に調査資料の研究の蓄積をまとめるためにデータベースの作成に着手した。特に北陸地方の女性については、「女子文壇」以外の同時代の女性雑誌や新聞を調査研究するために必要な文献資料の収集を行い、富山出身の寄稿者小寺菊子については縁故者より資料提供を受け、資料整理を行い、日本社会文学会秋季大会において発表を行うことができた。 さらに「女子文壇」における日露戦後から明治終焉期までの投稿の変化を明らかにするために、1913年(大正2)の同時代の雑誌も含め「新しい女」についての言説のジェンダー構成について文化史の視点から調査研究を行い、「<新しき女>とは何か-一九一三年における「女子文壇」の文化史的研究-」の論文にまとめた。また「女子文壇」の中に「西洋婦人新聞」や「西洋の婦人」という欄が設けられ、森鴎外の「椋鳥通信」の女性に関する記事が転載されていたことを実証的に明らかにし、「鴎外『椋鳥通信』から『さへづり』へ-情報メディアと創作-」にまとめた。「女子文壇」の寄稿者小金井喜美子について考察した『明治女性文学論』を発刊するなどの研究成果があった。 「新しい女」についての特集が組まれ、雑誌メディアの中で最も議論が活発になされた1913年に「女子文壇」では誌面を刷新し、自立した書き手を生み出し育てていくと同時に女性自身がより女性の自立や解放に向けた文章を書ける場としての役割を果たしている点でもきわめて重要な女性投稿雑誌であったことがわかった。「新しい女」が脚光を浴びた年にその牽引役となった「青鞜」の講演会を積極的に紹介し女性解放を論じるだけでなく、女学校に通える女性たちにとどまらず働く女性に対しても視野を広げる誌面作りがなされている点に「女子文壇」の意義を究明するなど新たな知見を得た。
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