平成21年度は、明治36年のシェイクスピア翻案(『オセロ』翻案、『ハムレット』翻案)について、当時の新聞記事(萬朝報、時事新報、都新聞など)を参照しながら調査・検討し、さらに「翻案」現象に関する理論的な総括を行った。まず新聞記事の調査から、この時期の川上の翻案劇は大盛況を示したとはいえ、それは川上の自負する「西洋土産」という意図とは必ずしも一致しないことが明かとなった。おおむね記事は、その翻案制作(適応措置)の歌舞伎風の記述に熱心であり、小山内薫や坪内逍遥らの例外を除くとき、シェイクスピアの「オリジナル」との「比較」、ほ舘事たはほとんど見られない。つまり、明治期の日本への翻案(適応)を目指して川上によって制作されながら、一般の受容層にとって優勢であったのは、(欧化主義のもと抑圧されていた)歌舞伎を中心とした演劇環境の方であったといえよう。このような調査を進めるなかで、「翻案」現象にまつわる受容の問題(「翻案」としての認識)を考察したい「翻案」は、ふつう作品の存在論的なあり方として、「オリジナル」と対比させられる。しかし、明治期日本のような文化接触の現場においては、そのような「比較」は起こらない。制作は、はじめ翻案「である」ことを意識されず、やがて翻案「である」と認識されるに至る。つまり、「翻案」とは、受容環境の如何にようて認識されるものであり、制作そのものに貼り付けられる存在論的なレッテルではない。この検討については、アリストテレス『詩学』の理論とともに、「ギリシャ哲学セミナー」での招待講演・および論集において公表した。なお研究費は、主に近代演劇関係の消耗図書購入に充てた。
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