研究計画の初年度にあたる当該年度は、「17世紀以来の英語演劇のコンヴェンションの一つ〈ステージ・アイリッシュマン〉を網羅的に分析し、近代イングランドにおいてこの記号的なアイルランド人表象が有していた政治・文化的な意味の重層性を明らかにする」という本研究の目的に適う資料の収集を中心に、研究活動を行った。具体的には、2007年8月26日-9月10日にロンドンへ渡航し、大英図書館所蔵のトマス・シェリダン及びR・B・シェリダンに関する文献調査を行ったほか、Eureka Pressなどの学術出版社による復刻版の近代演劇の回想録集などを購入した。 また同時に、初年度よりこまめな成果発表を心がけ、二度の学会発表を行うとともに、本研究者が編者の一人を務めた研究論文集の中で、「一八世紀の英国演劇におけるアイルランド人表象」というタイトルの論文を発表した。その概略と意義は、以下の通りである。 当該論文は英国演劇と人種・言語の問題を議論の中心に据え、一八世紀英国の英語改革運動とそれに伴う「標準英語」確立の動きを扱っている。こうした運動は必然的に、標準英語を喋れない者を「文明化された社会」から疎外するはたらきを持っていたが、「ステージ・アイリッシュマン」をその一例と位置づけた上で、こうした記号が差別主義的な英国人作家の筆によってのみ産出された訳ではなく、トマス・シェリダンら、アイルランド人作家自身も、ステージ・アイリッシュマンを自らの芝居に登場させていることを、本論文は指摘している。 当時のロンドンで活動していたアイルランド人作家たちが、言語的に自分たちを疎外する社会の中で、どのような戦略を用いて生き残りを図ったかを考察しただけでなく、英文学分野のみならず言語哲学の世界においても有名な、言語使用上の誤りの一つの型として知られる「マラプロピズム」(間違い語法)が生まれた背景には、こうしたアイルランド人表象の伝統があったという本論文の分析は、文学・言語学と政治・文化研究との間をつなぐ意義を持つものである。
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