本研究は、現代文学を代表する日系英国人作家カズオ・イシグロが生み出す小説世界を、モダニズムに始まる20世紀英文学における「英国性」の変遷の中に位置づけ、国家的アイデンティティ及び個人的アイデンティティの表象と、その二つを結びつける役割を担う「芸術/職業」の倫理的意義について考察することを目的としている。19年度に実施した研究の中心は、イシグロの長編小説第5作『わたしたちが孤児だったころ』において、コスモポリタニズムから小英国主義への回帰という大戦間を舞台に、私立探偵という「英国的」職業がどのように脱神話化されているかというテーマで英語論文を執筆することにある。このために夏季休暇に大英図書館においてリサーチを行い、大戦間の文化資料等の収集に努めた。更に、本作構想にあたりイシグロが刺激を得たという1930年代の英国探偵小説について知識を深め、その代表的作家の一人であるドロシー・L・セイヤーズに関する研究を、日本ヴァージニア・ウルフ協会年次大会でのシンポジウム「National Cultureと(Step-)Daughterたち」において発表し、活発な意見交換を行った。大戦間の探偵小説については近年批評的関心が特に高まっており、イシグロが生み出した「信頼できない」名探偵に関する議論を発展させる上で、極めて有意義な研究であったと考えられる。こうした成果を踏まえ、現在完成段階に近づいている論文を20年度には発表し、まだ萌芽状態にあるイシグロ研究及びますます発展を続ける英国性に関する議論に貢献することを目指していく。
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