本研究は、現代英文学の旗手とも言うべき日系人作家カズオ・イシグロが生み出す小説世界を、大英帝国崩壊に伴う20世紀における「英国性」の変遷の中で議論し、国家と個人の関係性、その狭間に位置する職業及び芸術の倫理的意義について検証することを目的としている。平成20年度に実施した研究においては、まずイシグロの多くの小説の舞台となっている戦間期英国社会に関する前年度からのリサーチを発展させ、『転回するモダン』(研究社)所収の論文「隠喩としてのインフルエンザ?」に纏め上げた。本論では、第一次世界大戦末期に世界を襲ったスパニッシュ・インフルエンザを巡る社会的・文化的言説の考察を通じて、正に最悪のタイミングで「グローバリゼーション」の脅威に直面した英国が、個人の身体と精神の統制を図ることで、国家的アイデンティティの保持を画策した過程について検証した。この論考によって、第一次世界大戦後の大英帝国の疲弊と衰退、その危機にあって再建を余儀なくされる「英国性」についての諸問題が明らかにされた。第二の研究としては、このように「英国性」が揺れ動いた戦間期を舞台としたイシグロの第5作長編小説『わたしたちが孤児だったころ』における、推理小説ジャンルのパロディ化をテーマとした英語論文を執筆した。戦間期に一大ブームを巻き起こした「名探偵」を主人公とする推理小説は、大戦によって精神的基盤を揺るがされた当時の英国民に、根絶し得る悪と、回復される安全という神話を提供する逃避文学とも解釈できるが、イシグロがこの「逃避」に倫理的意義の可能性を付与すべく採用した、テクストにリアリズムと非リアリズムの世界を混在させる手法について、本論では考察した。本論の出版によって、イシグロの小説世界の重層性についての議論が更に高まるものと期待される。
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