第一次大戦前の社会進化論、優生学、人種退化論により形成された国家観、および大戦中から戦後にかけての国家のあり方をめぐる議論を踏まえたうえで、国民国家のアイデンティティおよびナショナリズムのイデオロギー形成と、D・H・ロレンスの教育用テキストとはどのような関係にあったのかについて研究した。 ロレンスの歴史教科書物Movements in European Historyにおけるドイツ表象を分析した。焦点を当てたのは、ロレンスによるゲルマン民族およびフン族の描写、そしてロレンスの近代ドイツ観である。これらを通して、『ヨーロッパ史のうねり』と国家イデオロギーとの微妙な関係が明らかになる。反独イデオロギーのもとゲルマン民族の過小評価がなされていた時代にあって、『ヨーロッパ史』でのゲルマン民族は、ヨーロッパ文明の誕生にとって欠くことのできない存在として描かれており、親独的ともとれる身振りである。 しかしその一方でフン族の描写には、当時の人々の間に流布していたイメージの連鎖、すなわちドイツ人=フン族/野蛮/アジア/退化/小動物といった反独的な枠組みがそのまま採用されている。 近代ドイツを扱った「ドイツ統一」の章では逆に、ビスマルク以降のプロシア的軍事国家を嫌悪する当時の反独感情と真っ向から対立する世界観が提示されている。物質主義が蔓延し、破壊衝動の萎えてしまった近代ヨーロッパを再生させる契機として、ビスマルクによる軍事的強権体制が描かれる。しかしここにも、当時のイギリスの中産階級の間で広く流布していたイデオロギー、すなわちイギリスにおける人種退化論や優生学をめぐる共通の問題認識が浮き出ている。ドイツをめぐる『ヨーロッパ史のうねり』の中の記述には、ロレンス独自のドイツ観と、当時のプロパガンダによって流布された反独イデオロギーが分かち難く絡み合っているのである。
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