本研究の主眼は、一九四〇年に焦点を絞り、中華人民共和国成立直前の文芸界において、中国の文学者・知識人達がいかにして「新中国」を志向していったか、或いは志向しなかったか、を探るととろにある。昨年度に引き続き、本年度も三九四〇年代に限定せず、関連すると思われる研究書・文献の収集を行なった。また、考察兜分析を効果的にとり行なうために、これらの研究書・文献に関するデータの整理・統括を行ない、資料集・書誌の作成に取り組んだ。 収集した研究書・文献については、資料の精読・具体的な考察を行なったが、その際個別の作品に関しては、作家が「いつ・いかなる土地で」執筆したものであるかに着眼している。本年度は、その結果、一九四〇年代に活躍した作家銭鍾書の長篇小説『囲城』に関する論考を執筆した。これは『囲城』の作品論であるが、主人公親子を通して近代中国知識人の実相に迫ったものである。小説の背景となっている一九三〇年代には、科挙を受験した旧式の知識人と、欧米に留学し、最先端の学術・思想を学んだ新式の知識人が存在した訳であるが、『囲城』は旧式の知識人の家父長的な道徳観や狭隘な世界観を批判しているだけでなく、新式の知識人の皮相的な教養のあり方や虚弱且つ浅薄な精神構造をも描き出し、鋭い批判の矛を向けているのである。本論文は、こうした新旧の知識人の描写の中から、著者銭鍾書の中国における「近代」のありようへの批判を読み取れると指摘した。つまり、新旧というわかりやすい二項対立的視点を用いれば、新式の学術・思想はより良いものであったはずだが、皮相的な近代の摂取は旧式な世界観をも凌ぐ精神的腐敗に到ることになり、それはとりもなおさず当の国会が一の省状にっていたことを示すものでもあったのである。この視点・指摘に基づき、来年度も銭鍾書『囲城』及び他の作家・作品も考察・分析していく。
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