第二次大戦後に始まった在外同胞のソヴィエト・アルメニアへの「帰還」運動は、反ソ路線に傾いていた亡命政党ダシュナク党も第二次大戦直後には「帰還」運動に関して必ずしも批判的でなかった点は興味深い。この問題を検討した結果、ダシュナク党にも内紛があり、ソヴィエト・アルメニアに帰還することで本国奪還を図る派閥と、あくまでも共産主義政権を打倒する派閥との間での論争があり、最終的に反共派が主導的になったことが、ダシュナク党が1950年代以降反「帰還」運動を強く打ち出すようになったことを明らかにした。 また、これまではソヴィエト・アルメニアに「帰還」した人々にもっぱら着目したが、本年度は送り出した側の事情も検討した。一例を挙げると、レバノンでは、アルメニア教会の首長カトリコス座が分裂し、その一つが移動してきたため、在地のアルメニア人社会もソヴィエト・アルメニアにいるカトリコスとレバノンにいるカトリコスのいずれを尊重するかという論争と共産主義化した「本国」を容認するか否かの問題がリンクし、当初はソヴィエト・アルメニアへの「帰還」運動が在外社会でも好意的に迎えられていたのが、急速に在外社会の分裂をもたらした。結局、この「帰還」運動は、在外社会では、共産主義を容認するかの「踏み絵」となると同時に、「本国」では、反トルコナショナリズムを移植することになり、アルメニア人社会にとって、反トルコの面では共産主義の「鉄のカーテン」を超えたものの、在外社会内部の「鉄のカーテン」は、むしろ決定的となった。
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