本研究は、新羅土器を分析、検討することによって、考古学的手法により律令国家形成過程の特質を明らかにすることを本研究の目的とする。平成21年度は、日本出土資料のリスト整備を行うとともに、搬入元の一つと目される大邸周辺の資料について現地調査を行い、これまでの調査成果をまとめた。 6世紀後半まで、新羅の土器が搬入される中心は北部九州であったが、6世紀末頃から畿内へ齎されるようになり、7世紀になると畿内が分布の中心となる。当初の中心地は難波であり、飛鳥への搬入は少し遅れるが、7世紀後半には飛鳥地域に集約する。これは6世紀末から7世紀初頭にかけて公式の外交と非公式な交渉とによって難波地域に齎されていた新羅の土器が、推古朝と天武朝という2つの画期を経て飛鳥を中心とする大和へ搬入されたものと考えられる。これら2つの画期はともに中国的な外交儀礼の導入を背景としているが、推古朝がその導入期、天武朝がそれを強力に推し進めた時期であった。畿内に齎された新羅の土器は、7世紀前半まで宮殿のない難波地域に分布が集中し、7世紀中頃まで分布は散在的であった。少なくとも、その頃までは宮殿の所在地が献物の搬入地を強く規定することはなかったのである。したがって、7世紀後半、新羅の土器が飛鳥・藤原地域に集中し始めたのは、そこに宮殿が存在したからではなく、天武朝における政治的戦略によって外交権の掌握が図られたからに他ならない。これ以後、新羅の土器は宮都を中心に分布が移動するようになり、宮都の所在地が搬入目的地となる。舶来品の宮都への集中は、外交権が皇権に一元化され、諸権力が宮都に集約していることを反映するものと考えられる。このように、新羅の土器を通して、天武朝に始まった国家建設が、平城京に至って完成していく様子を窺い知ることができる。
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