明治初年の台湾出兵およびその収拾過程(1874年)について、各新聞の論調を収集・分析した(『日新真事誌』『横浜毎日新聞』『東京日日新聞』『郵便報知新聞』など)。 1874年初頭の民撰議院設立建白書の『日新真事誌』掲載を契機として、新聞は開かれた政治論議の空間としての期待を急激に集めていた。各新聞の論説や投書からは、台湾出兵自体の論評だけでなく、なぜ出兵に至ったのか情報公開を求める要望が見てとれる。木戸孝允が参議辞任に際し出兵批判を含む文書を公表したことや、居留地経由で香港・上海の中国語新聞や欧文紙の主張が紙上で精力的に紹介されたことも論議を活発にした。 出兵への賛否両論が新聞で論じられたこと自体は既に先行研究で指摘されているが、本研究では出兵をめぐる論議の構造を、一方では政府支持・批判の文脈から、他方では外交論議としての観点から分析することに努めた。同年に並行して民間で論争となった征韓問題との比較の中で、台湾出兵は「問罪」の正当性の有無(日清間における琉球王国・台湾の所属如何)という次元と、出兵に伴う得失(国内の不平士族の処遇、日清戦争の危険性、内治優先論など)という次元との違いが意識されながら論じられたことを確認した。 また、前年度に引き続き朝鮮開国問題・征韓論争についての新聞論議を分析した。 これまでの分析を踏まえて、明治初年の「公論」形成と東アジア国際秩序についての総括を試みた。新聞における外交論議は、特に西南戦争以前は民権論および不平士族問題と直結していたため、政府への批判/支持によって規定される傾向が強かったが、同時に、日本の正当性の有無、主権国家体制と中華帝国秩序との異同、国益の所在如何などを弁別しようとする側面も有していた。それは日本国家の外交が、政策決定過程自体は政府に独占され続けたとはいえ、民間での論評の対象としては開放されたことへの歓迎の表現と見るべきだろう。
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