明治時代の法秩序論の位相を明らかにするために、明治前期において儒教における「天」観念がどのように再構成され、また、自然法観念と関連して考えられたのかについて考察を加えてきた。 従来、「天」という語自体は、近代になってほとんど死語化し、思想的な意味を失っていったと考えられてきた。自然法的発想もまた、福沢諭吉に代表される天賦人権論が一時期の流行を経た後、急速に弱まっていったとされてきた。福沢諭吉自身、天賦人権論を好んで唱えたのは明治の最初期のみであり、後年に至っては、その言葉自体、あまり使わなくなっていた。 このような「天」観念、自然法観念の希薄化は、権力をも拘束し得る超越的な規範の希薄化と同義であるかのように捉えられ、明治国家は、何物にも縛られない強力な権力として成立していき、昭和期の暴走する軍国主義国家につながっていったと考えられてきた。 しかし、調査の結果明らかになったのは、西周に典型的に見られるように、「天」観念や自然法観念が希薄化していった大きな要因は、それらが現実において力を持ち得ないのではないか、とする疑問にあった。そこにおいて秩序は、現実の力を持つべきものとして考えられ、それゆえ、慣習法的秩序が高く評価されることになった。慣習法的秩序は、当然、権力も拘束されざるを得ない規範であり、自然法的発想の希薄化という事実をもって、権力が超越的な規範を忌避したとする理解、権力が暴走していくための思想的下地が作られていったとするような理解には根拠がないことが明らかとなった。 しかし他方では、自由民権論者は依然として「天」の文字を好んで用いていたし、自由民権論者とは対立していたはずの加藤弘之も、「天」の文字を忌避することなく使い続けていた。彼らにおける「天」の用法と、西や福沢らの天の文字の忌避とはどのように整理することができるのか、今後の課題である。
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