今日まで報徳結社の活動史および経営理念の比較検討をしなかったため、日本における公益活動史の大きな潮流を掴むことができなかったが、本研究では、報徳組織の組織運営とその広がりを中心軸として考察し、結社が拡大していった経緯と原因を類推したことによって、その一端を知る手掛かりを得た。 一つの個体群と見なせる、凝集性のある報徳結社を観察すれば、それらが本社支社制度という縦の強い結びつきで構成されており、それが拡大しながらも、まとまりを保持し続けた一つの要因と見なせる。一方で、本社にあたる上部組織間による結びつきは、横のネットワーク化と言えるものであり、そのネットワーク化は明治期より既に行われていた。このことから報徳結社は、決して上下関係だけの結社群ではなかったことが分かっている。 また、二宮尊徳の一番弟子であった富田高慶の結社が、尊敬されつつも、広がりを見せなかった点について言及したが、これは報徳結社の仕法の違いによるものと推察できる。すなわち、行政が報徳仕法を取り入れることによって、初めて仕法が成り立つとする、福島県在住の富田の行政型仕法に対して、静岡県の岡田良一郎らを中心とする静岡の一群は、自主的な組織として、いわゆる市民活動として実施するという、結社型の仕法を早くから行っていたことが、その原因にあると考えた。これらは、市民活動と行政との関係を考える上でも、重要な歴史的示唆を含んでいると思われ、なお詳細な研究を進める必要がある。
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