わが国の近代大学の形成過程において、帝国大学とは異なる大学理念を基礎づけたとされる関一の大学論は、(1) 商科大学設立論および (2) 公立大学論の二つの要素を含むものである。これまでの大学史研究においては、論者により (1)・(2) の側面が別個に強調されることはあったものの、両者を関連づけ、一つの思想的まとまりを持つ大学論としては理解されてこなかった。本研究では、高等商業学校時代から大阪市長時代までの大学論を見渡し、その変化をとらえるとともに、都市政策思想の展開との関連から理解し、全体像を明らかにしようと試みた。その成果は以下のように要約される。 1.日本における商業教育の地位確立のために教育内容を実際的なものから学術的なものへと変革しようとする志向はドイツ留学時代から大阪助役時代まで一貫している。しかし、そこに見られる帝国大学に対抗しようという意識は、商業教育の高度化の要請から導かれるものではなく、教育機関としての独立・存続を図ろうとする結果であった。 2.関の大阪商科大学設立に際しての問題意識の中核をなしたのは、自治体の行財政について学問的調査研究を行い「市政改善に進むべき規範を発見する」機関の必要であった。この点で、関の大学論に大きな影響を与えたものは、C.ビーアドらの唱えた当時の都市政策論の展開であった。 3.関は、調査研究機関の設置形態を公立に固執していたわけではなく、学問調査研究が一定の倫理性を備えることで、現実社会において強い影響力を持つ経済勢力とバランスをとることに期待していた。社会政策論に対する評価とも併せて考察すると、関の思想上の特徴は自治の視点を明確に持つことであり、これこそが、従来別個に論じられてきた二つの要素をつなぐものだといえる。
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