19世紀後半のイタリアに求められた様式は、なにより国家的であることが不問の前提であった。そして、その保証が歴史に求められたにもかかわらず、新しさも求めなければならないという矛盾した要求のうえに、折衷主義が大きな可能性として浮上した。だが、これは中世建築を理想とするC.ボイトによって徹底的に退けられ、ついには全国会議のなかで公式に否定されるにいたる。これにあわせて、1880年に国家様式の問題はボイト理論においても完全に決着がつけられた。だが、問題の終結は、それまで封じ込められていた折衷主義が再び主張される前兆であった。そのとき、もはや国家の印というしがらみに捕らわれる必要はなかった。さらに、すべての保証を与えていた歴史さえも重荷として感じられるようになる。こうして1890年頃から、新しさや合理性への純粋な要求が徐々に表面化してきたのであった。
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