本研究は、ヒト胚性幹細胞(ヒトES細胞)が密着結合有する上皮細胞様の頂端部-基底部に沿った非対称性を有していることから、細胞極性と多能性維持・初期分化誘導の関連性に焦点を当て研究を開始した。極性形成に重要な役割を担っている古典的・非古典的Wnt情報伝達経路と多能性維持に関して、まず古典的Wnt経路の役割を検討するためヒトES細胞株に条件付き活性化システムの導入を試みた。条件付き活性化システムとして、研究代表者等がこれまでに確立しているエストロジェン受容体との融合蛋白質を用いた発現システムを利用し、古典的Wnt経路において中心的役割を担うβ-cateninとエストロジェン受容体とのキメラ蛋白質を発現するプラスミドベクターを作製、これを複数のヒトES細胞株に導入後その安定形質株を樹立した。タモキシフェン(エストロジェンアゴニスト)処理によりβ-cateninを活性化した結果、数日以内にヒトES細胞の密着結合・密着結合が完全に崩壊し、頂端部-基底部に沿った細胞極性の消失が確認された。各種未分化・分化マーカー遺伝子の発現解析の結果、β-catenin活性化に伴い初期発生過程の原条(primitive streak)から中胚葉前駆細胞形成といった一連の哺乳類初期発生プログラムをほぼ全ての細胞で生じていることが明らかになった。これらの結果から、ヒトES細胞の細胞極性の維持はその多能性を維持する上で必須であることを示すとともに、細胞極性の崩壊によって容易に初期発生過程を模倣する遺伝子発現プログラムが惹起されることが明らかになった。この成果は、古典的Wnt/β-cateninシグナル経路による細胞極性の制御がヒトES細胞エピゲノムに秘められた多能性を引き出すトリガーとして中心的役割を担っていることを示唆している。
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