平成20年度においては金性洙の個人史に関わる事象に着目して考察を行った。 まず旧韓末に朝鮮半島から渡ってきた留学生が、日本でどのような思想をもって体育・スポーツを実践してきたのかを孫煥の論文と金淇周の著書に依りながら確認した。体育を通じて弱肉強食の競争に打ち勝ちうる能力を育て、健全たる韓国の青年を養成することが目的とされ、当時の朝鮮人知識人らの間での体育・スポーツへの価値観が窺えた。また当該期における日本のスポーツの特質としてスポーツが国際的な活動、国際交流の場として機能し始めたことを鑑み、植民地支配下にあった朝鮮半島のスポーツの進展過程を同時代的なものとしてみる視点と並行して、この時期からの連続性としても見る視点を提示した。 次に上記との繋がりのなかで金性洙自身に着目するとき、彼の行った事業、すなわち東亜日報社の経営と普成専門学校の経営とスポーツとの関係を考察した。例えば東亜日報社は朝鮮体育会の設立に寄与し、また女子体育の発展にもその手腕を発揮している。普成専門学校では体育部が活躍し、籠球部は全日本大会で優勝するなど朝鮮半島のスポーツの発展を示唆する活動がみられた。さらにベルリンオリンピックでは蹴球部の金容植も活躍するなど、スポーツの場における朝鮮人の活躍が顕著に現われるようにもなっていた。これらについて重要なことはスポーツという活動が植民地期の朝鮮において近代的な価値観を多くの人々に知らしめるものであったということであった。しかしこうした近代的な価値観はその後の植民地政策に絡め取られていったという点で植民地性を内在するものでもあったと結論付けた。
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