研究課題/領域番号 |
19H01455
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研究機関 | 北海道大学 |
研究代表者 |
兎内 勇津流 北海道大学, スラブ・ユーラシア研究センター, 准教授 (50271672)
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研究分担者 |
松重 充浩 日本大学, 文理学部, 教授 (00275380)
バールィシェフ エドワルド 筑波大学, 図書館情報メディア系, 助教 (00581125)
井竿 富雄 山口県立大学, 国際文化学部, 教授 (10284465)
麓 慎一 佛教大学, 歴史学部, 教授 (30261259)
長與 進 早稲田大学, 政治経済学術院, 名誉教授 (40172564)
Wolff David 北海道大学, スラブ・ユーラシア研究センター, 教授 (60435948)
中嶋 毅 首都大学東京, 人文科学研究科, 教授 (70241495)
青木 雅浩 東京外国語大学, 大学院総合国際学研究院, 准教授 (70631422)
藤本 健太朗 東北大学, 東北アジア研究センター, JSPS特別研究員(PD) (40851944)
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研究期間 (年度) |
2019-04-01 – 2023-03-31
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キーワード | シベリア出兵 / ロシア革命 / チェコスロヴァキア軍団 / 非公式帝国 / コルチャーク政権 / ヴァシーリー・ボルディレフ / 立花小一郎 / 執政政府 |
研究実績の概要 |
シベリア出兵は、第一次世界大戦とロシア革命・内戦のさなかに1918年8月に開始された。このころアメリカ大統領ウィルソンは、無併合、無賠償、民族独立などを内容とする14か条の外交原則を唱え、1919年にはパリ講和会議を経て国際連盟が発足するなど、国際政治の在り方が大きく転換しようとした時代だった。シベリア出兵における日本外交は、そうした転換への対応に失敗したとみられることが多いが、必ずしも単純に旧来の帝国主義外交を貫こうとしたわけではなく、対米英関係に配慮し、新しい外交の原理をそれなりに取り入れ、経済的進出を重視するなどの方向性を含むものだったことを示すことができた。しかし、外交面、経済面とも、具体的な実証は今後に待つべき部分が大きい。 この他、日本が出兵中に行った武器や資金等の援助、およびロシアの駐日武官との関係について、内外の文書史料をもとに実証的研究を行い、論文として発表した。 また、1918年11月に成立したが短命に終わった執政政府に参加したロシア陸軍の重鎮ヴァシーリー・ボルディレフの日本滞在(1918年末から1920年初め)について研究し、論文を投稿中(掲載決定)である。 ウラル以東のロシア内戦において重要ファクターであり、その援助が連合国の出兵目的の柱とされたチェコスロヴァキア軍団内で刊行された新聞『日刊チェコスロヴァキア』掲載記事の分析を進め、ハイラル事件、および韓国独立運動との関係について発表した。 出兵は、ロシア極東部と満州にまたがって行われ、関東軍および朝鮮軍はウラジオ派遣軍の活動を支援した。初代関東軍司令官(1919年4月~1921年1月)をつとめ、その後ウラジオ派遣軍司令官を務めた立花小一郎(1861~1929)の日記翻刻を進め、その一部を発表した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
シベリア出兵について、いくつかの面で新しいアプローチを取り入れ、広く東アジア政治外交史の中で位置づけるという方向の研究に、着実な前進を見ることができたと考える。 本研究を進める中で、シベリア出兵を日露関係史の中で考えるには限界があり、日本の植民地研究や中国史、さらには経済・金融・企業史も含めた、東アジアの地域社会・政治・経済の中で考察する方向性の有効性をある程度実感できるようになりつつあり、論文として発表された成果は必ずしも多くないが、それぞれが大きな意義のある内容であり、次年度以降の進展は大いに期待される。 そのほか史料基盤の整備においては、『日刊チェコスロヴァキア』紙収録記事の翻訳やチェコでの史料収集、立花小一郎日記の翻刻作業の進展など一定の前進を見た。 ただし画像資料公開や関連文献資料の翻訳・出版、外国人研究者を招聘しての研究交流は、途中で資金不足となったこともあり、次年度以降の課題として残った。
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今後の研究の推進方策 |
本年度は、ロシアその他外国の文書館の史料を収集し、主要事件の分析を深めて新しい境地を開きたいところであるが、その実現可能性は不透明な現状がある。 当面、関連図書等の購入、収集済み史料の解読・分析を進めつつ、時期を見て研究会を開催し、研究の進展を図ることとなる。 昨年度実現できなかった、ウェブサイトを通じての画像資料公開を進め、12月の学会にロシアから研究者を2名招聘し、日本側からも2名の報告者を立てて、シベリア出兵の転換点となった1920年前半を扱うパネルを実施することを考えている。 1920年初めにコルチャーク政権が崩壊すると、日本以外の連合国はすべてロシアから撤兵し、チェコスロヴァキア軍団もウラジオストク経由で帰国した。ロシア領極東各地には次々とボリシェヴィキの影響力が強い政権が成立した。こうした中で生じたのが3月、5月ニコラエフスク事件であり、4月4/5日の沿海州武力衝突事件である。これらの事件は、シベリア出兵の後半部分を大きく規定することになるもので、シベリア出兵の前半と後半の両方を理解する上での勘どころであるが、これまで(特に日本の歴史学では)学問的研究の対象とされることが少ないまま過ぎている。また、ロシアにおいても、政治・外交的な思惑もあり、必ずしも十分研究されていない。 本年度は、これらの事件の100周年ということもあり、これを突破口に研究の進展を図りたい。
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