本研究の目的は、明治時代に成立した活歴物・松羽目物の検討を通し、現代歌舞伎の形成過程を究明することである。現在進行形の演劇であった近世歌舞伎がいわゆる古典芸能として定型化したのは明治以降のことであり、両ジャンルは「古典化」現象と密接に関わっている。今年度は歌舞伎の「古典化」を催促した事象に注目し、九代目団十郎の活動と追善公演という興行形態に関する二つの研究を遂行した。 第一は、九代目団十郎の「転向」による歌舞伎の「古典化」を天覧劇の事件と「勧進帳」の上演歴史を踏まえて考察した。史劇改良を試みた団十郎は天覧劇を契機に、改良を辞し保守的な体制を堅持するようになる。その手掛かりとして天覧劇で上演された「勧進帳」上演に注目した。明治初期は市川家の後継者としての自己主張の側面が強かったが、天覧劇以降は単なるお家芸以上に、天覧に預かった尊い演目として扱われた。故に劇場側も一種のプレミアム作品として上演し、団十郎も「勧進帳」の独占を図り、権威付けを試みた。天覧劇というお墨付きと団十郎の独占・権威付けを基に「勧進帳」に対する世間の認識も〈日本を代表する演目〉と変わっていく。 第二は、追善公演の歴史を近世から戦後まで追跡し、その意味変遷を解明した。元禄期以降になると、故人と何らかの関係を持つ役者により追善狂言が上演されたが、これには「年忌供養」の概念が民衆に広まったこと、檀家制度が確立したことと関係がある。それから拡大し、役者も家業を継ぎ、先祖を祭るという意識から追善公演を催し始めた。とくに安永~化政期には追善草双紙の盛行や死絵の発生に伴い、追善公演の頻度が増加した。それ以来、追善公演の企画は衰退したが、団十郎と五代目菊五郎の死を皮切りに追善公演の企画が再興する。さらに、追善と襲名を共に行う事例が多く見られ、団菊祭が確立するなど、追善公演は歌舞伎の「古典化」に欠かせない役割を果たした。
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