研究の最終年度である本年度には、これまでの成果を総合して、博士論文『配流刑の時代――清代配流刑の諸相をめぐって――』を完成した。該論文が注目する清代刑罰制度の一特性は、当時が配流刑を重用する「配流刑の時代」であったことである。五刑の一つである「流刑」はもちろん、「充軍」「発遣」「徒刑」まで、罪人を原籍地から離隔した場所に送り帰らせない配流刑が、広範囲に執行されたのである。つまり、清代の刑罰制度を実際いかなる形態で処罰するかという側面で単純化してみると、打撃刑と拘束刑、配流刑と死刑に分かれていたと言うことができ、そのうち配流刑の前例のない突出を考慮すると、清代を「配流刑の時代」と理解しても無理はない。 ただ、「配流刑の時代」の結末は「配流刑の終焉」であった。宣統二年(1911)に公布された『大清新刑律』では死刑・無期徒刑・有期徒刑・拘役・罰金が正刑になり、配流刑は再び復活することはなかった。逆説的であるが、このようになった原因の一つは配流刑の時代を経るうちに確認された配流刑の諸問題にある。配流刑は罪人を配所に送る費用と交通網は勿論、既に配所に送った罪人に対する管理まで要求される手間のかかる刑罰であった。なお、清代の配流刑は軍隊や一部の辺境地域を配所としていた従前とは異なり、内地の一般州県に大多数の罪人を収容するものだった。つまり、配流刑を実刑として広範囲に執行することにより、それに随伴する経済性や罪人の管理問題が明らかになったのである。 要するに、配流刑に注目すると、清代の刑罰制度には過去と区別される三つの意義を持っていた。第一に、配流刑が幅広く実刑として執行されたこと、第二に、その過程で内地の一般州県が大多数の罪人の配所となったこと、第三に、配流犯の管理をはじめとする諸問題の出現により配流刑、ひいては伝統的五刑制度が改革される内在的要因になったことである。
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