13世紀中葉の秘跡論において、「権能(potestas)」は、聖体の秘跡の執行とこれに関連する諸職務を可能たらしめるものとされる。この「権能」概念に関しては、権能がなくとも執行しうる職務が多数あり、では権能は何のためのものか、という問いがあった。この問題はトマス・アクィナスにおいて一層際立つ。何故ならトマスは、特定の秘跡において受け取る霊印を「能力」ないし「権能」と同一視することで、聖職者のみならずあらゆる信徒の諸行為も「権能」と対応させる、つまり権能概念のカヴァーする範囲を拡張するからである。 今年度はこの点につき、ロンバルドゥスの『命題集』第4巻の諸註解、及びトマスの『神学大全』第3部の秘跡論を中心に検討した。権能なしで可能に見える行為にそれでも権能が必要である、ということを弁証する際、神学者らは権能が「職務として(ex officio)」行為に及ぶのに必要だと簡潔に述べ、「職務として」何かをなすことは権能という実在的支えなしに不可能だという前提を明らかにしている。トマスはさらに、霊印が純粋な能力でなく「道具的」な能力であるという留保を加えつつ、神の道具としての地位において特定の行為に及ぶことは(単にその行為を実施することとは異なり)道具的能力つまり霊印なしに不可能である、とする。まとめるなら、単なる行為と職務ゆえの(道具としての)行為は区分され、権能は両者ないし少なくとも後者を可能たらしめるものであり、行為が実在的能力を根拠とするのと同じく教会内の身分(やそれに対する承認)も(霊印や権能という)実在的な根拠を前提する。 これらの点を明らかにしたことが概ね今年度の実績である。この点はトマスの秘跡論全体の特徴でもある「道具」の概念の理解にも資すと考えられる。さらに、秘跡論との接続のもとに論じられることの少なかった高位聖職者の「職務(officium)」との関連も検討されうる。
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