今回の科学研究費に基づく私の研究においては、まずは、非常に大きな、と言いうるであろう一つの発見があった。それは、ろう者が自らのうちで物事を思考する際に、その母語と言いうる手話を必ずしも使用しないということ、これを使用せず、視覚的に与えられる情報(画像・視覚表象)に基づいて、この画像(視覚表象)のまま、この画像(視覚表象)そのものによって、おおむねまずは思考を展開するということである。ここにおいては、私たちの感覚内容の大部分を占める視覚情報(画像・視覚表象)と、それと同種の画像(視覚表象)によって展開される思考内容との間で、表象上の一体性が成立している。この一体性は、思考を音声言語(音声・聴覚表象)によって遂行する聴者においては原理的に成立しない。ろう者は、手話という身体言語つまり画像言語によって対話を行なうが、これは基本的に、こうした画像(視覚表象)による思考(「画像思考」)を映し出したものと見ることができるのである。 こうして、このような「画像思考」を根底にもつ手話言語は、感覚内容の大部分を占める視覚情報との表象上の一体性を保持することにおいて、カントの提起した直観と概念との一体性をめぐる「権利問題(正当性の問題)」に対して、特有の意味をもつに至りうる。というのも、カントは、この問題の解決に向けて、アプリオリとアポステリオリの区別を導入したわけだが、しかし、この問題は、手話言語においては、すでにまったくアポステリオリな領域において、解消していると見なしうるからである。すなわち、ここにおいては直観と概念とは自ずと一体なのである。この問題は、現代、マクダウェルによって尖鋭に論じられるが、ヘーゲル論を含むこうした諸論に対しても、手話言語はまちがいなく、一石を投じると見うるのである。
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