辜鴻銘の東西文化論を検討することが本プロジェクトの課題であった。辜鴻銘については1920年代の在日時期の講演活動や欧文で発表した諸論説について、私は学問的な検討を加え、中国大陸での最新の研究成果も参照し、学術論文をかつて発表したことがある。辜鴻銘は五四新文化運動の時期にヨーロッパ留学から帰国し、西洋古典学の教授として北京大学で教鞭をとり、学生への教育活動を行うとともに、北京を中心とした学術界で多彩な言論活動を行った。その意味で「新文化運動」の一翼を担っていたといえるが、辜鴻銘に対する学術的な評価は難しい。スター教授をそろえ、思想的な立場もヴァリエーションに富んでいた北京大学の同僚たちからも様々な評価を得ていた。ただし、それらは辜鴻銘が「奇人」であるとか「古怪」といった辜鴻銘の特異な外見や奇矯な性格に左右されていた表面的なものであった。そこで私は本プロジェクトでより広い視野から辜鴻銘を思想史的な位置づけることを目的とした。 本プロジェクトでは辜鴻銘研究の一環として、迂遠ではあるが、より時間軸を長めにみつもり、辜鴻銘の東西文化論を中国近代思想において位置づけることを目指した。具体的には、洋務時期の「中体西用論」から梁啓超の文明史、明治日本ではぐくまれた西洋の「学知」に対する理解、民国初期の中国で展開された東西文化論戦、胡適の「全面的西洋化論」などの東西文明に対して論及した中国近代の思想家たちの議論をトレースする作業である。その成果は拙著『清末思想研究ーー東西文明が交錯する思想空間』(汲古書院、2022年)に結実し、本プロジェクトの研究対象である辜鴻銘もその中に確かに位置づけられている。コロナによる各地の図書館・文書館の訪問をともなう資料調査の不便というやむをえない事情があり、1920年代の辜鴻銘の訪日時期の関連資料については、今度のさらなる史料調査を待ちたい。
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