研究課題/領域番号 |
19K00162
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研究機関 | 早稲田大学 |
研究代表者 |
岡室 美奈子 早稲田大学, 文学学術院, 教授 (10221847)
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研究期間 (年度) |
2019-04-01 – 2022-03-31
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キーワード | ベケット / ヒッチコック / 「フィルム」 / 裏窓 / カメラ・アイ / 映画の視線 / 脳の眼 / W・B・イェイツ |
研究実績の概要 |
本研究課題は、サミュエル・ベケットの実験的な映画やテレビ作品と、アルフレッド・ヒッチコックの映画を比較検討し、ベケットの映像作品がヒッチコックの影響下に創作されたことを、視線の構造という観点から明らかにすることを目的とするものである。 令和元年度は、準備段階から行ってきたベケット『フィルム』とヒッチコック『裏窓』に共通する、睡眠と覚醒のあわいに出現する特異なカメラ・アイの視線を、先行研究を精査しつつ詳細に分析し、それらがともに『裏窓』のジェフや『フィルム』の「O」など「見る主体」の肉眼とは異なる「脳の眼」(mind’s eye)と言うべき無意識の視線であること、その背景には、両者ともに、マルブランシュやバークリーらの知覚論への関心があったことを明らかにした。 その一方で、アメリカ嫌いとされていたベケットが『フィルム』ロケ地として、『裏窓』の舞台となったニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジに固執したことなど数々の状況証拠はあるものの、ベケットが『裏窓』を見たという事実は伝記や書簡等の諸資料から確認できなかった。ゆえに直接的な影響を証明するのではなく、作家の意志に関わりなく、『フィルム』を『裏窓』への応答あるいは後日譚と捉えうることを指摘した。すなわち、『裏窓』は、私たちが常に誰かの監視の対象になりうるというパノプティコン的状況に置かれていることを示したのに対して、11年後に製作された『フィルム』では、グリニッチ・ヴィレッジの無数の窓のあるアパートに向かう男「O」は、アパートの室内がもはや安全でプライベートな領域ではないことを知っているがゆえに、部屋の窓をぼろぼろのカーテンで覆うのだと言える。しかし窓を覆って他者による監視の視線を遮っても、無意識の自己知覚から自由になることは不可能であるというポスト『裏窓』とも言える状況が、『フィルム』において示されていると考えうるのである。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
本研究の中心課題であるヒッチコック『裏窓』とベケット『フィルム』における視線の比較研究に関して、かなりの成果を得ることができた。ベケットに関しては報告者は長年の研究の蓄積があるが、ヒッチコックや映画論は本来の専門ではないため、先行研究や関連文献を網羅的に精査した。とりわけヒッチコック映画における「語り」について、クリスチャン・メッツやシーモア・チャットマンらの論を精査することで、『裏窓』における機械的、映画的な語り手としてのカメラ・アイの機能を明らかにした。ヒッチコック論は飽和状態と言えるほど膨大にあるものの、これは従来の論考では指摘されてこなかった点であり、ベケットと比較することではじめて明らかになったと言える。 また、本研究の独自性は、ベケットやヒッチコックの映像を詳細に分析するのみならず、その思想的背景をヨーロッパの思想史や芸術史の中に探る点にある。そこで令和元年度は、本研究の主要なキーワードの一つである「脳の眼」の源泉をベケットに多大な影響を与えたウィリアム・バトラー・イェイツらに求めるのみならず、前年度までの準備期間には手薄であったニコラ・ド・マルブランシュやジョージ・バークレーらの知覚論にまで遡って考察した。彼らの知覚論には神学的な側面が強く、さらなる考察が必要であるものの、その影響についてある程度明らかにできたことは収穫であった。。 成果発表としては、日本語論文は『表象13』(表象文化論学会、2019年)に掲載されたが、令和2年3月に英国バーミンガム大学において、同大学のベケット研究者グレアム・ソーンダース教授やデイヴィッド・パティ教授らと共同開催する予定であった国際シンポジウム”Beckett and Popular Culture”が、コロナウィルス感染拡大とコーディネーターのパティ教授の体調不良により中止となったため、海外での成果発表は先送りとなった。
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今後の研究の推進方策 |
今後は令和元年度の研究を踏まえ、ベケットとヒッチコックに共通する、肉眼とは異なる「脳の眼」と無意識との関りを掘り下げる。ヒッチコックの『白い恐怖』は精神分析をテーマとしており、ベケットにも影響を与えたと言われるサルバドール・ダリが手がけた眼をモチーフとしたセットが使用されていることから、この作品を一つの手がかりとして両者の映像作品にみられる視線を考察する。 また、トム・ガニングが指摘するように、フレームはヒッチコックの映画においてテーマに関わる重要な役割を果たしており、とりわけ、『裏窓』の窓枠のような映画のフレーム内部のフレームは、見るという行為を強調している。他方ベケットはフレームを通した窃視というコンセプトを、あらかじめフレームが視聴体験に組み込まれたテレビというメディアに見出し、テレビ作品を「覗き穴の芸術」と呼んだ。本研究では、『……雲のように……』、『幽霊トリオ』などベケットのテレビドラマにおける「フレーム」の機能を、ヒッチコックの映画とテレビ作品におけるフレームの役割を参照しつつ明らかにし、ベケットがテレビ作品を「覗き穴の芸術」と呼んだ意味を明らかにしていく。 さらに、ヒッチコックがロンドン生まれのアイルランド系英国人であったことに着眼し、英国系アイルランド人であったベケットとの、視線や知覚をめぐる思想的・文化的共通基盤を探る。そのため、アイルランドのトリニティ・カレッジと英国レディング大学にあるベケット・アーカイヴ等で草稿や文献の調査を行う予定である。 令和元年度にはバーミンガム大学と共催する予定の国際学会がコロナ禍により中止となったが、本研究の成果は令和2年度以降に、国際学会で発表するとともに、海外の学術誌に英語で投稿する予定である。海外での調査や研究発表に関しては、少なくとも令和2年度については、コロナウイルスの感染状況を慎重に見極めて判断したい。
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次年度使用額が生じた理由 |
2019年7月初旬に、2020年3月に英国バーミンガム大学において、同大学のベケット研究者グレアム・ソーンダース教授やデイヴィッド・パティ教授らと国際シンポジウム”Beckett and Popular Culture”を共同主催することが決定し、本科研費の使途を一部変更して、その渡航費、宿泊費、開催費等に使用することとした。しかしながら、コロナウィルス感染拡大とコーディネーターのパティ教授の体調不良により中止となった。併せて、オックスフォード大学における調査と意見交換も感染拡大に鑑み中止した。そのため「旅費」とこの国際シンポジウムに関わる予算が全額未使用となった。 コロナ禍がいまだ収束しないため、バーミンガム大学との国際シンポジウムは開催の目途が立っていないが、海外渡航が可能になれば、オックスフォード大学、および英国レディング大学とアイルランドのトリニティ・カレッジにあるベケット・アーカイブ等にて研究者との意見交換と草稿研究を行う予定である。
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