俳諧師・書肆の執筆した浮世草子の考察を目的とする本課題研究の最終年度にあたり、西鶴を中心に、その叙述の特徴等を、俳諧を視座において文学史に位置づける考察を行った。歴史社会学的方法論によった文学史は、現在では顧みられなくなった。文化事象を唯物史観で決定論的に説明しても、文化そのものの解明にはつながらないからである。しかし、社会状況のもたらした、その時代特有の文化構造を把握することは、文学史の通時軸の設定に不可欠である。十七世紀には、中世以前の文学が版本メディアを通じて再編されて古典が印刷物によって享受された。Aという文化がAとして再生されたのではなく、メディアによってAと似たaとなり、中世以前よりはるかに多数の人々に受け入れられたのである。古代・中世の延長に十七世紀があるのではなく、断絶と無秩序のなかから、十七世紀文化が出現した。 例えば『去来抄』には、西鶴の文章を芭蕉が俳文として批判する言説がみられる。芭蕉が批判した西鶴の文章は、直接的には『好色一代男』『難波の顔は伊勢の白粉』等の、天和・貞享期の浮世草子・役者評判記だが、仮にこれらを「談林俳文」と名付ける。西鶴の「談林俳文」の新しさは、読者の想像力が、異なるコンテクストの衝突から、新しい意味を創造した点にある。この関係は、前句に付句をぶつけて、打越(前句の前の句)と前句とは異なる意味世界(コンテクスト)を創造する俳諧連歌の方法と共通する。一昼夜で何句詠めるかを競う西鶴の矢数俳諧は、複数人の連衆(連句を作る仲間)の座(創作共同体)を、一人の創作者と不特定多数の享受者に変質させた。西鶴小説の作者と読者との関係は、上/下の啓蒙的関係にあるのではなく、矢数誹諧の連衆のように西鶴と等身大、すなわち水平的関係にある。十七世紀文学は、量とスピードを重視する文化のもとで版本メディアによって古典を享受した人々が創作したことに特性がある。
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