研究課題/領域番号 |
19K00397
|
研究機関 | 大阪市立大学 |
研究代表者 |
田中 孝信 大阪市立大学, 大学院文学研究科, 教授 (20171770)
|
研究期間 (年度) |
2019-04-01 – 2023-03-31
|
キーワード | ディケンズ / メイヒュー / ウィリアム・ブース / モリソン / 中流階級 / 労働者階級 / 子供 / 帝国主義 |
研究実績の概要 |
本年度は、労働者階級の子供に対する中流階級の眼差しが帯びる意味を、4つの作品に探った。『荒涼館』(1852-53)に登場するスラムの申し子ジョー少年に対するディケンズの姿勢には、憐憫の情が見られる反面、彼が階級の境界を越えて病気を伝染させるがゆえに、汚穢に対する恐怖が読み取れる。犬に譬えられた少年は人間性を持たない、身体だけの存在として描き出される。そうした捉え方はメイヒューの『ロンドンの労働とロンドンの貧民』(1851)にも共通するものである。洞察力を持つ中流階級が、身体だけの労働者階級の子供を教育することの必要性が唱えられる。それどころか、労働者階級そのものが「子供」と見なされる。彼らの放浪癖を中流階級が制御し定住させることが国家や帝国の発展にとって肝要であると示唆されるのである。その傾向は、帝国主義の高まりと共に、ブースの『最暗黒のイングランドにて』(1890)ではますます顕著になる。彼の救世軍は、中流階級と労働者階級の平等を唱え、「子供」である労働者階級の教育が帝国の安定拡大につながると主張する反面、労働者階級には矯正しがたい本質的な欠点があり、それゆえ中流階級のような洞察力は持てないという矛盾した態度を示すのだ。労働者階級が持つ本質的な欠点という考えは、世紀末の退化への恐怖と連動するものであり、モリソンの『ジェイゴーの子供』(1896)では、スラムが産み出す住民は獣同然のものとして描かれ、主人公ディッキー少年は「殺されてよい」生き物なのである。モリソンは貧困を貧民の性格ではなく社会的・環境的原因に根差すとしながらも、ブースにも見られたように、遺伝説を完全には排除せず、最終的に優生学に問題の解決を委ねるのである。 「子供」に譬えられた労働者階級、とりわけ、その子供を中流階級は教育によって同化しようと試みながらも、同化とは名ばかりで境界が消滅することはないのである。
|
現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
所属機関の校務多忙のため、上記4つのテクストにしか目を通すことができず、関連する文学テクスト、社会学・歴史学の文献にまで研究の範囲を広げることができなかった。ただ、『ロンドンの労働とロンドンの貧民』を読む過程で、メイヒューの観察者としての眼差しに対して、その対象となる労働者階級の目や視線への否定的な言及が繰り返されていることが判明したのは非常に有益だった。また、『最暗黒のイングランドにて』の分析を通して、救世軍の矯正計画が、階級の隔てなく帝国意識を植えつけようとする一方で、退化理論にも固執し、メイヒューの場合にも増して、労働者階級を生来的に欠点を持った生き物、それゆえ中流階級の監視によって再生する必要のある「子供」と見なしていることが明らかになったのは大いなる収穫であった。そこには、世紀末の「想像の共同体」の枠に収まらない、階級的他者への恐怖が窺い知れる。
|
今後の研究の推進方策 |
令和2年度は中流階級による労働者階級、特にその階級の子供を同化しようとする動きに反発するベクトルを探る。それは2つの観点から考察する必要がある。一つは、中流階級の規範からの階級内の逸脱行為であり、もう一つは、対象となる労働者階級からの否定的な反応である。主たるテクストとしては、前者については、アシュビーによる労働者階級の子供との関係を記した「アシュビー・ペイパーズ」、後者については、労働者階級の若者を惹きつけたセンセーショナリズム溢れる「ペニー・フィクション」や、スラムの住人だったアーサー・ハーディングの生の声を文字に起こした『イースト・エンド・ワールド』(1981)を取り上げる。令和2年度は、当初の予定ではイギリスの図書館や博物館を訪問する予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い断念し、専らテクストと関連資料の渉猟に努める。
|
次年度使用額が生じた理由 |
(理由)校務が多忙を極め、製本予定だった多量の資料の整理ができなかった。また関連資料の選択・購入に十分な時間を割くことができなかった。 (使用計画)資料の整理を謝金による作業補助員を使ってできるだけ早くに行い、製本に出す。また、関連資料を選択し発注する。そのための費用に充てる。
|