ミシェル・フーコーが提唱した「ヘテロトピア」学を検証し、その概念に照らして19世紀フランス文学における「そこだけどこか異なる」場と、それらの関係性について考察した。その中で、場と場をつなぐさまざまな境界、そして境界ともまた異なる「あわい」に注目するに至った。 具体的にはジョルジュ・サンドの小説における窓と室内の関係について引き続き考察を進め、『コンシュエロ』において船や地下が果たす役割、『ルドルシュタット侯爵夫人』において外と内をつなぐ鳥の役割などについて考察した。境界を越え、そこにあるものを「濾す」ことによって生まれるポエティックなものを引き続き分析した。『テヴェリーノ』などの小説で鳥が示す地と天、海の間についても調査した。その成果は論文にまとめ、近く発表する予定である。 バルザックの小説における船と庭についても考察を続けた。庭が私的な公的な時間のさまざまな層をそこに抱え、別の場所を指し示したり投影したりしながらも、私生活のさまざまな「面」と照らし合って小説を構築することを、鏡、地図などとの関係において論じた。またいくつかの船が運ぶヘテロトピアや、『呪われた子』における海、空、地上の私生活空間の「あわい」についても考察した。 さらにバルザックの小説の中では、サロンという一種のヘテロトピアで育まれた音楽と、バルザックの小説がいかにつながっているかを考察した。この成果はL'Annee balzacienneに掲載された論文にまとめた。 当初「ヘテロトピア」とみなせる場所と想定していたさまざまな場所、すなわちサロン、墓場、賭博場、船、商業施設などについても考察しその成果は近く発表する予定だが、境界の定義をみなおし「あわい」という概念を導入することによって、ヘテロトピアの概念もまた拡張・変更されうることがわかった。この成果を近く形にし、さらなる研究につなげていきたい。
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