研究課題/領域番号 |
19K00538
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研究機関 | 関西学院大学 |
研究代表者 |
李 建志 関西学院大学, 社会学部, 教授 (70329978)
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研究期間 (年度) |
2019-04-01 – 2024-03-31
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キーワード | 朝鮮 / 李垠 / 日記分析 / 比較文学比較文化 / 天皇 / 皇族 / 朝鮮王公族 / 近代オリンピック |
研究実績の概要 |
今年は李垠に関する評伝の一部を作品社から出版することができた。二段組みで約600頁という大部な著作になり、誰も読んでこなかった日記類、私が発見した手書きの日記などを使い、定説を覆すことができた。 一例を挙げると、梨本宮方子女王の日記の分析から、これまで政略結婚という見方が強すぎた李垠と方子妃の結婚が、かなりの純愛結婚であったことを証明できた。また「徳寿宮賛侍室日記」の記載の分析から、李垠が山県有朋を中心とした宮中の勢力にいじめられ、大正天皇との友情も一時期微妙な状況であったことをあぶり出したり、「北白川宮成久王御附武官の日記」(手書き・個人蔵)から、皇族がどのような軍学校生活を送っていたかを明らかにした。 また、スペイン風邪流行期に李垠と方子妃は結婚したのだが、その当時に陸軍士官学校に入学した本村信夫の「日誌」(手書き・個人蔵)から、軍学校でのスペイン風邪対策なども描き出すことに成功した。 また、アイヌのオリンピック出場(1904年のセントルイス大会)や南極探検(1912年の白瀬矗隊)での活躍、そしてスペイン風邪ではアイヌがかなり苦労したことにも触れた。さらに、現在でも毒殺説が根強く韓国で語られる高宗(李垠の父・朝鮮李太王)が、やはり高血圧による脳溢血死(自然死)であることを、「徳寿宮近侍係日記」の分析から結論づけることができたことも大きな収穫だった。 しかし、1920年以降に関しては、詳細な日記は残されておらず、これまでとは違い、私が発見・発掘した日記類を駆使し、残り2年の研究期間で、彼の23歳から70歳までの人生を、一冊にまとめることとする。この本も、作品社から出版予定である。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
1: 当初の計画以上に進展している
理由
まだまだ先になると思われた、「李氏朝鮮最後の王李垠」の第3巻が、当初の予定より早く本研究課題の採択中に出版できたこと。そして、その内容も第1巻、第2巻以上に濃くまた深い内容になったと自負しているからだ。頁数も長く、「広く深く」さまざまな問題に取り組めたことは自信を持っていえる。
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今後の研究の推進方策 |
当然、あと2年残された研究期間で、「李氏朝鮮最後の王李垠」最終巻にあたる第4巻を発表する。まずは1920年(大正9年)の日本と朝鮮の関係から論じはじめ、「李王職日記」や「李王職日記抄出」、「昌徳宮李王実記」、そして李垠が欧州巡遊した際の日記、李垠の御附武官の日記などを拾い、できうる限り細かい李垠の研究を行う。もちろん、日朝の比較文学比較文化という視点からも、あるいは先住民(主にアイヌ)の研究という側面もこれまでと同じように維持していこうと考えている。 また、これまでの李垠評伝でも取りあげてきたが、女子教育なかんずく朝鮮での女子教育や児童教育、日本での女子体育教育や女子医学教育などにもきちんと目を配り、李方子が韓国帰国後に福祉活動(孤児や発達障害を持った児童の教育)をしていたことと結びつけようと考えている。なおこの事業には、日本の瀬島龍三が関与しており、旧日本陸軍の詳細な研究は、必須となるだろう。
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