本研究では以下の3つの問いが設定されている。1) 接頭辞なしと接頭辞つき動詞で、モダリティ的意味において差異があるか否か、完了アスペクトからモダリティ的意味あるいは語用論的意味が派生することは可能か。2) 完了アスペクト標識としての動詞接頭辞 meg がモダリティ的意味をもつに至るプロセスは、内容語から機能語へと変化する文法化の「一方向性仮説」に対する反証になりうるか。3) このような意味変化の背景にあるメカニズムは何か、どのような動機づけがあるのか。 今年度は日本語の「テシマウ」と共通したモダリティ的意味がないかどうかをさらに検討するために、昨年度に引き続き、使用頻度の高い動詞(主に移動や状況変化を表す動詞およそ100 語)について、meg 以外の様々な異なる動詞接頭辞が接続したときの意味用法の記述を行い、それぞれの用法の違いを比較検討した。その結果、動詞 vag 「切る」に meg が接続した megvag は、「指や首などをうっかりちょっと切る、傷つけてしまう」という意味があることがわかった。(「完全に切断する」という意味は「離れて」という意味を持つ接頭辞 el のついた elvag を使用する。)これはまさに「テシマウ」の<遺憾>(「動作主体が意志を持って行為を行い、あるいはコントロール不可能な状況下で行為を行い、その結果、話し手が残念な気持ちになること」)というモダリティ的意味と一致している。 これは、ハンガリー語の接頭辞 meg により完了アスペクトが付与されたことから、さらに<遺憾>というモダリティ的意味が派生したと考えられる事例であり、文法化の「一方向性仮説」に対する反証となりうる可能性がある。また、モダリティ的意味の派生の背景には、他の動詞接頭辞や基動詞の意味などが関係していると考えられることがわかった。
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