研究課題/領域番号 |
19K00649
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研究機関 | 大阪府立大学 |
研究代表者 |
山東 功 大阪府立大学, 高等教育推進機構, 教授 (10326241)
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研究期間 (年度) |
2019-04-01 – 2024-03-31
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キーワード | 日本語学史 / 漢学言語論 / 古文辞学派 / 荻生徂徠 / 太宰春台 |
研究実績の概要 |
本研究は、これまで日本儒学史・漢文学の分野において中心的に扱われてきた、近世漢学者の研究について、日本語に関する言及を精査することにより、近世日本における日本語研究のあり方を、国学に偏頗することなく総体的に把握することを目的とする。(なお、儒学のあり方については、中国において展開された儒学と、その日本における受容とでは意味内容が異なる場合も存在するため、日本における儒学・漢文学を担う主体を示す用語として、本研究では「漢学」の語を用いている。)具体的には、明代古文辞運動の影響のもと古文辞学派を打ち立てた荻生徂徠と、太宰春台、堀景山、市川鶴鳴といった徂徠以後の門流や関係者の言語研究に関して、特に漢文訓読法の展開や音韻論の概要を明らかにするとともとに、古文辞学派と国学との関係について、日本語への言及をもとに考察を行った。 本年度においては、特に漢文訓読をめぐる近世学知の近代以降への継承の実態把握と、その日本語学史的分析の必要性について言及を行った。これは、日本語研究史たる「日本語学史」が、国語意識の史的展開として把捉された「国語学史」として存置するか否かを問うことにつながっていくことでもある。例えば、漢学言語論が以後の日本語研究に対して直接的な影響を与えたものとして、品詞分類の概念そのものの有用性という認識と、テニヲハを品詞分類上の概念として理解することにより、「虚・実・助」といった漢学上の区分が、日本語の品詞分類にも適用可能であるという認識の二点を挙げたが、これらは、近世において、いわば外的に啓発された「国語意識」であると言えよう。それを主と捉えるのか従と捉えるのかは、その意図はさておき、記述におけるある種の立場性に由来する。そのような立場によって明確化したものが、まさしく「国学」と「国語学」との関係であったという点について論及した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
明代古文辞運動の影響のもと、古文辞学派と称される学派を打ち立てた荻生徂徠と、太宰春台、市川鶴鳴といった徂徠の門流や、徂徠の影響を受けた堀景山の言語研究に関しては、言語観をめぐる古文辞学派と国学との関係など、注目すべき点が極めて多い。これらは、時枝誠記の主張した「国語意識の史的展開」としての「国語学史」という枠組みを超え、近世儒家の思想史的背景とともに、当時における学知の根幹であったとも言える漢学において、とりわけ古文辞学における古文辞(運動)・清朝考証学との影響関係という、東アジア儒学思想史・対外交渉史的研究を念頭においた、漢学者言語論についての日本語学史的考察が望まれるということであり、このことは、明治以降の影響関係をも視野に置くことによって、「国語学」という近代学知の成立を問うことにも繋がっていく。本研究は、かかる課題をもとに進められている。 なお、本年度も新型コロナウイルス感染拡大の状況から、大学図書館等における文献調査にほとんど着手できなかったが、すでに影印や翻刻がなされているテキストを中心に、その精読を行うことによって、所期の目的を達することが出来たと位置付けられる。
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今後の研究の推進方策 |
荻生徂徠は『訓訳示蒙』において、「助字」に関して「助ハ倭歌ノテニヲハ也」と述べている。歌学秘伝書の『手爾葉大概抄』には「和歌手爾波者唐土之置字也。」とあるが、これを逆の立場から述べたのが徂徠ということになる。このような、漢学において見出された「日本語」の意味について、漢文訓読批判の文脈を踏まえつつ再検討を行う際、漢学言語論という視点は極めて有効である例えば、『弁道』で示された「後世の人は古文辞を識らず。故に今言を以て古言を視る。」という言語観が、逆に「今言」に対する精緻な言語感覚を招来する契機となり、特に日本語助辞の研究を推進する意味をもったという過程は、もう少し重視されるべきかと思われる。また、徂徠の『訳文筌蹄』(1711(宝永8)年成、1715(正徳5〔初編〕)年刊、1796(寛政8〔後編〕)年刊)には、「形状字面」、「作用字面」、「声辞字面」、「物名字面」(初編)「半虚字」、「虚字」、「実字」、「助字」といった術語が見られるが、これらは「小学」(漢語学)研究史的に見ても、その措定法において、極めて興味深いものである。同様に、太宰春台が『倭読要領』(1728(享保13)年刊)において、次のように説明したように、漢文訓読で重要な「テニヲハ」が、近世国学言語論へとどのような交渉をもったのかについて、見ておく必要がある。
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