前年度に石見国安濃郡大田南村妙光寺日荘の著作を分析しその思想的特徴を把握するとともに、日荘が関わった神職との争論の詳細を明らかにしたことを踏まえ、当年度は日荘が依拠した本圀寺了義院日達の折伏主義的傾向を継承した彼の弟子筋の僧侶らの活動事例を把握した。 具体的には、明和3年(1766)に本圀寺から追院を命じられた大和国郡山妙善寺住職であった守要日康が、本山による処分に異議を申し立て幕府に訴え、明和5年(1768)5月に本圀寺学頭瑞雲院日応・奈良蓮長寺日誠らとともに寺社奉行土岐美濃守(定経)に召し出されて審議を受けたものの敗訴した事例から、日達が退いた後の本圀寺の方針変化(折伏の重視から摂受を基調とする態度へ)を読み取った。 また、日康の事例に続き、安永4年(1775)、大石寺に背き「四箇の名言」を唱えるなどの折伏修行を勧め態度を改めなかったということで遠島に処された摂津国島上郡梶原村源覚寺の堅樹日好の教えを引き継いで弘めている事例として、嘉永年間の無宿増十郎の一件などを見いだし、史料の解読を進めた。 その外、浄土真宗の動向については、西本願寺学林能化をつとめた功存の著作で三業帰命説の根拠となった『願生帰命弁』を批判した、粟津義圭の著作である『徹照西方義』や『閑論』を分析し、教学と布教者との間を媒介した義圭の所説の特徴を明らかにした。 前年度までの成果と当年度の成果により、近世後期には日蓮宗教団内で他宗派や吉田神道などに対し論争的態度で臨む僧侶が盛んに活動していたこと、そのことにより地域での宗教者間の紛争が惹起された結果、教団の方針転換に影響を与えたことなどが明らかとなった。しかし俗人の活動レベルでは論争的態度が継承されることも確認でき、このことは浄土真宗教団内での異安心が繰り返されることと通底する事態であることも把握できた。
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