鎌倉真言派に関する資料を収集し、論文「鎌倉真言派の展開」を著して、以下のことを明らかにした。(1)護持祈祷体制を補強したいとの将軍九条頼経の要請をうけて、九条道家は親厳に嫡弟の厳海を鎌倉に下向させるよう命じた。鎌倉に赴いた厳海は明王院供僧・別当に補任され、頼嗣の御祈衆に任じられた。親厳が亡くなると厳海は随心院の門首となり京・鎌倉を往還して祈祷活動を続けた。 (2)厳恵は厳海から相承した将軍頼嗣御祈衆の安堵を求めたが、その安堵は容易に出なかった。建長の政変を機に、九条家一門が排除され将軍頼嗣も追放されたが、厳恵は幕府から将軍宗尊の護持僧、明王院別当に任じられて幕府祈祷に従事した。厳恵は鎌倉を離れることが叶わなかったため、親杲に随心院の留守を託して、静厳への伝法灌頂を命じた。しかし将軍宗尊の失脚により、厳恵は鎌倉を出奔して京都に逃れて遁世することになる。 (3)厳海が将軍頼経の招聘で鎌倉下向して以降、多くの随心院流僧徒が鎌倉に赴いて祈祷を行い、数多くの随流僧を育成した(厳瑜・厳雅・経厳・尊厳・賢長など)。厳恵の失脚後、鎌倉随心院流の中心となったのが、久遠寿量院別当能厳である。そして能厳は京都での公請実績がないまま、僧正に任じられ、厳済・厳朗らの弟子を育成した。厳恵が失脚すると、静厳ー厳家ー経厳の随心院は門跡化をとげて京都での活動に専心し、傍流の僧侶が鎌倉で活動した。 (4)以上の鎌倉随心院流の他、鎌倉中期の学僧として守海と宏教を取りあげた。まず守海は、京都での不遇から鎌倉に赴いた。やがて憲深から伝法灌頂をうけて、鎌倉三宝院流の中心となり、金剛王院流実賢ー定清と対抗した。また、佐々目遺身院の別当に任じられて執権北条経時らの菩提を弔うとともに、幼い頼助(経時息)を育成しながら、知法の学僧として多くの人材を育てた。一方、宏教は西院流の学僧であり、能禅・能海など数多くの弟子を育成した。
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