中国や朝鮮半島、日本列島で個別に検討されていた古代窯を、統一的な視点で改めて分類した。そして、朝鮮半島の窯が、華北の無ヒ広短窯(平窯)の影響で出現した後に、華南の無ヒ長胴窯(穴窯)の影響を受けたことを明確にした。さらに、長胴窯の影響の受け方の違いにより、広短窯の要素である、焼成部と燃焼部の間の段を残す場合の多い百済、馬韓地域の窯と、焼成部と燃焼部の間に段がなく、長胴化が発達した伽耶、新羅地域の窯という地域差が生じたことを指摘した。山本孝文氏が示唆した伽耶・新羅土器は高温焼成で、百済土器の焼成温度が相対的に低いのは、窯構造の差によるだろう。 日本列島へは植野浩三氏により百済窯の影響が説かれていたが、この地域差を考慮すると、兵庫県出合窯を除き、日本列島へ初期に導入された窯には段がないので、伽耶、新羅の窯の影響を受けたといえる。これは初期須恵器の故地の主体が伽耶である事実と整合的である。ところで、朝鮮半島の陶質土器と軟質土器はそれぞれに論じられてきた点に問題があった。そこで、これらを総合して土器生産体制を復元すると、陶質土器製作集団、陶質土器と軟質土器の製作者が1つの集落に居住する場合、軟質土器のみの製作村というように、3つのパターンが併存していることがわかった。その場合、日本列島への渡来集団の在り方にも多様なパターンがあると推測される。そこで、初期須恵器と軟質土器の胎土分析と製作技法を検討した結果、陶質土器工人集団の渡来が想定される陶邑窯と、陶質土器と軟質土器の製作者が混合した集団の渡来が想定される京都府宇治市街遺跡出土土器生産の場合のように、土器製作をおこなう渡来集団の在り方に多様性のあることが判明した。 さらに、他の研究者らとともに、漢周辺への窯技術拡散の具体相を浮き彫りにし、シンポジウムと書籍Kilns in East and North Asiaでその成果を公開した。
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