本研究は、モンゴル支配を安定に導いた清朝の外藩統治政策の行政構造上の特質、とくに盟旗同士及び駐防官衙の関係を、同時期の文書資料を用いて解明しようとするものである。コロナ・ウイルスの流行のため、当初予定した黒竜江将軍などの駐防官衙の資料調査は断念せざるを得なかったので、刊行された盟旗側の文書による検討を行った。具体的には、内モンゴル・オルドス・イヘジョー盟右翼後旗(ハンギン旗)の文書(『杭錦旗札薩克衙門档案』)中、同治年間の来文目録(トブヨク)と同時期の来文・行文档冊を用いて、同旗の駐防官衙門・盟長・副盟長・盟内外各旗との文書往来の状況を検討した。トブヨクには、同治元年~同治11年1月までの125か月間の来文1302件の到着・受理日と文書の梗概が記され、来文・行文档冊には同治年間全体の1163件の文書が収録されている。これらの分析から、同旗の文書処理態勢(筆帖式=書記の勤務態勢)、月ごとの来文数とその時期的変化、来文の発出衙門、来文送達にかかった日数などを明らかにした。この結果、同旗では筆帖式が三つの班を組み、2か月ごとに一班次あたり平均7.6人の筆帖式が交代していたこと、同旗が受理した来文件数は月平均10件(平常時13件、非常時5件)、文書発出衙門では58%が盟長衙門、副盟長10%、盟内各旗11%であること、駐防官衙では神木司員7%が最大で、綏遠城将軍・帰化城副都統・寧夏将軍等はごく少数だったことが判明した。また隣接する陝西省・甘粛省の地方官との直接の文書往来は無かった。以上の知見は、同旗の文書交換が盟内及び隣接盟の直接境を接する旗とに限られ、駐防官衙との文書往来は原則盟長を通していたことを示す。この事例から、清末の外藩では盟・旗の垂直的な行政統治構造が確立していたこと、駐防官衙は盟長を通じて外藩旗と関係をもっており、旗への直接的な管理は行われていなかったことがわかった。
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