本研究は、中央アジアにおける「1916年反乱」について、とくに反乱の過程で発生した、隣接する中国新疆への逃亡者について分析するものである。 最終年度となる今年度は、英露の対立・協調とドイツの立ち位置、さらに移民を受け入れる側の新疆省政府が人々の移動をどのように見ていたのかについて明らかにした。その成果は、海外の研究集会で報告をしたほか、国内学術誌に投稿し次年度に掲載の予定である。 研究期間全体の研究成果は、以下の3点である。第一に、第一次大戦下において、中央アジアのムスリムの存在はドイツやトルコの関心を呼び、新疆への使節・調査隊の派遣につながった。それら外部の来訪者について、英露の駐カシュガル領事館が新疆当局に通報・提議を行っていたことを確認した。 第二に、先行研究が指摘していた東西をつなぐ回民(中国ムスリム)のネットワーク、哥老会と呼ばれる秘密結社などロシア国外からの扇動も、たしかに1916年反乱の要因ではあったが、本研究が詳細に分析した新疆各地のロシア領事館からの情報によると、哥老会やドイツ・トルコの1916年反乱への影響は、ロシア当局の責任転嫁や過大評価により、誇大に喧伝されていたことが明らかになった。英国のドイツに対する警戒心も加わり、それらが新疆政府の各地担当官に伝えられたとき、中国側の、外国による扇動への警戒を呼び起こしたのである。 第三に、哥老会のファクターについて新疆省政府が対応することはほとんどなく、新疆側が実際に重点的に対応していたのは、英国領事館が強く警戒するドイツ・トルコからの支援であった。これら外部からの要因について帝国の憶測が絡み合い、実質を伴わないムスリム・ネットワークの姿が、英露さらには中国(新疆省政府)の前に現出していたことが明らかになった。
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