マジョリカ陶器色絵フォグリー文アルバレルロは、江戸時代の茶道の水指として知られる壺である。アルバレルロは上下両端を絞る寸胴の薬壺で、ヨーロッパのカトリック修道院の薬局に並ぶ。色絵フォグリー文は二色に塗分けた葉文で、16世紀後半の意匠である。日欧の実物比較で、日本のものは17世紀前半のプロテスタント優勢のオランダ語圏北部の形態で、本体と意匠の時期が異なることがわかった。ゆえにヨーロッパに同一型式がなく、日本からの注文品と考えた。 本研究の目的は、宗教改革・日本の禁教令の中、如何にしてこの壺が出来たのかを探ることである。 感染爆発の影響で2022年度も、国内のマジョリカ陶器に絞り、出土状況や地理的分布、文献資料等から歴史的背景を検討した。結果、出土品の示す17世紀中頃~後半に、禁教政策が強まる中、博多と長崎のマジョリカ出土遺跡内にあった2軒の豪商が注文に関与した可能性が考えられた。茶人で貿易商の神屋宗湛とキリシタンで貿易商の末次興善の博多の屋敷は至近距離にあり、16世紀末に長崎・興善町を整備した末次興善は、長男に博多の家業を継がせ、次男の平蔵とともに長崎で貿易商を営んだ。平蔵の家系は4代にわたり長崎代官も兼務し、二代目・平蔵は1630-40年代にオランダ陶器の通商に関与したというオランダ商館の記録がある。マジョリカ情報を日本に持ち帰ったとみられる天正遣欧少年使節の千々石ミゲルも、大村藩・有馬藩を追放された後、1620年代には長崎に移住した。 これらのことから、日本のマジョリカ陶器色絵フォグリー文アルバレルロは禁教令下の1630~40年頃、長崎―博多でキリシタン・貿易商・茶人が関与して、プロテスタントのオランダ商館を介して注文され、将軍家も持たないこの意匠の壺は、かつてキリシタン大名が居た藩に残るカトリック情報網を通じて、来歴を隠して異なる用途で流通したものではないかと考えられた。
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